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銀行おばさんになって

Q:松原さんは「銀行おばさん」というふうによく呼ばれていらしたから、銀行にお勤めだったのでしょう?

はい、銀行は学校出てすぐに、友達と二人で「どうしようか、一緒に入れるようなところがいいね」とか言いながら、なんとなく受けたら二人とも入っちゃった。私はずっと本店にいたんですよ。

で、こっちに、深川にできちゃったんで、私より一年、二年くらい上の人かな、こっちにできたときに来てたんですけど、そしたら「一緒にやる人が気に入らないからあなた来ない? 近いんだから」っていうんで、深川のほうへ来ることになっんです。本店は、それでも7年くらいいたのかしら。

本店は丸の内。東京駅のすぐそばですよ。だから一本で行けたし、帰りは、あの頃ですから遅くまで残業させられるでしょ。みんなが「若い人だから、運転手さん、気を付けて送ってあげてね」とかね、お姉さんだけはいろいろ言ってくださるの。「私たち見てるから大丈夫よ」なんて言って。

あの頃、怖かったですもんで。外人さんがあそこの勝どきのところにいてヒューヒューヒューヒュー言ってるのよね。何やってんのかと思ったら、通る人にね。

 

Q:アメリカの軍人さん?  戦後の頃?

うん。あれは戦争終わって割合すぐですよね。
私が入ったのは24年かだから。

 

Q:じゃ、本当に怖いときでしたね。

そう、怖かったですよ、やっぱり。変な話、橋のところにたむろしちゃって、4、5人くらいずついるんですよ。そうすると、通るとピューって口笛吹いて。だから一人で帰るのは怖かったですね。で、バスも割合早くなくなっちゃうんですよね、そういうときはね。
そういう思いしてないでしょ。いいですよね、今の時代はね。

 

Q:たしかに今は夜中でも女の子一人でタクシーに乗っても怖くないですものね。

そうですよね。だからそのころ一人でタクシー乗ったら、私より上の人達がね「美枝ちゃんね、私たち、見ててあげるからね。運転手さんの名前もちゃんと控えたからね」とか言って。それで運転手さんに「よろしくね。送ってあげてくださいね。」って。

丸の内でしょ、ずっと月島まで。

 

Q:距離ありますものね。

ありますものね。割合いい運転手さんだったからよかったんですけどね、あのころは怖い運転手さんというか、あまり柄のよくない人もいたんですよね。

 

Q:ところで、ずっと今のおうちに住んでいらっしゃるのですか。

ええ、多少なおして広くなってはいるんですけど。前は四畳半っていう感じで、あと二階があって。まあお隣さんなんかよりは広かったんですよ、それでも。

で、だんだん、こっちのほうも空いてるから、それじゃ足していこうって言ってさ。だから三畳、三畳になったから、もうそうすると使いにくいんですよ、かえって。

で、使っている子がいたんで、その子をそれじゃここで泊めてやろうっていって、そこの三畳に入れて。

だから、その人も、最初のうちは家賃をとらなかったんですよ。で、二階が結局、二階に住ませてやろうっていったときに、四畳半かな上は、だから四畳半があるからそこで、その代わりお家賃としていくらか払ってもらおうかって言って。

 

Q:それは戦前の話ですか。

もう戦後ですよ。だってその人も施設にいた子だから。それで施設からうちへきて、うちのほうで養ったというか。それで、使っているから多少は、小遣い銭くらいだと思うけど、結局あげてたでしょ。

Q:何人くらいの方が借りていたのですか。

うちは、その子一人だけ。

 

ー両親の手伝いに魚河岸へ

それと、父親がやってて兄がやって、母が最初にあそこまで行ったんですよ。お金勘定だけはやる。で、行ってて、休みのときは私が代わりに、こっちが休みのときに行くのね。銀行休みだから。じゃ、具合悪いから、ちょっと行ってくれるって。私なんか休みなし。それで一銭ももらわない、ただ働きでしょ。そのころは「しょうがないや」と思ってやってましたけど。

 

ー父親と市場で昼食

でも父親がまだ生きているときは、お昼になると、「じゃ食べて行こう」って言って、市場の中にいろんな食べるところがあって、自分がいつも行っているところに連れて行ってくれて、そこでお昼食べて帰ってくるの。

 

ー銀行が休みの日は母の代わりに市場でお手伝い

だから、銀行お休みの日はそれで行くの。母が具合悪い時とか、そうすると、やっぱり一人ね、勘定する人がいないからって言うんで、私が、「休みなんだから。ちょっと来てやってくれ」って言うから。嫌なんですよ、本当は。だって計算の仕方が違うでしょ、銀行とまた。銀行の方が慣れているかさっさっさってできるけど、河岸にいったらこれはいくら?シモまであるから大変なんですよ。慣れてくればなんともないんでしょうけど。だから私も苦労しましたよ。

 

Q:魚河岸にお父さんが勤められていて、お手伝いさんがいて。

父親は、私が小さい時はお店で使われてた。それで、私がもうそこにお手伝いに行くようになったときは自分のお店になっていたから。それでやっぱり、前に父親が勤めていたところの社長の奥さん、奥さんというか、見えてね、「名前をあげるからやってくれないか?」って言われたらしいんですよ。

 

ー市場で鑑札を取ってお店を持つ

だけどやっぱり昔の人でしょ。「先輩がいるのに私がもらうわけにはいきません」って断って、自分は、うちの姉と母親が、あそこ売りに出したとかなんか、あったんですよ、そういうことが一回。で、そのときに行って、姉と母親が交代でいって、それで鑑札とった。やっぱり鑑札がないとあそこでお仕事できないでしょ。だからああいうのも大変なんですよね。

 

私なんかは、まだ女学校を卒業してなかったから。まあ、親が卒業させてくれたようなもので、大した勉強もしないのに。

 

ー私は銀行へ就職

だから友達も、一緒に銀行入ったんですよ、その人は。でもその人はすぐに支店に回されちゃったのね。するとやっぱり寂しいでしょ、こっちも。いやだなと思っていたけど、でもだんだん慣れてくると、皆さんとうまくやっていくようになったから。それでも、銀行に長年勤めて。それでやっているうちに本店から深川に支店ができたんですよ。で、私がそこに来る前に、私より先輩の人がこっちに来てて、「松ちゃん、家が近いんだから、こっちきなよ、こっちきなよ」って言うから。それでそこに移動させてもらって。

 

ー朝の通勤時に勝どき橋が開くと大変

勝鬨橋がほんとに近くていいんですよね。こっち行くと、勝鬨橋がちょうどこう開くときがくるでしょ。だから、時間はその日によって、たまたまこういう時にあっちゃうと、5分、もっとですね、10分近く降りるまでかかるでしょ。「遅刻しちゃわないかしら」って心配しちゃう。まあうまくいったからいいんですけどね。

 

でも本店のほうが楽は楽なんですよね。こっちはお店がちっちゃいでしょ。するとお客さんも細かいお金をお持ちでしょ。だからあんまりあれじゃなかった。でも、いまだに、あそこを私が歩いていると、「あら、しばらくじゃないの」って声をかけてくださるお客さんがいらっしゃるの。向こうの方で。「あら、だれだったかしら」。顔は何となく覚えていても名前までは分からないでしょ。だけど、「しばらくね」なんていって。その方ももう亡くなったでしょうね、だいぶたっているから。

 

現在の勝鬨橋

松原さんへのインタビュー  2/8   (インタビュアー宮本)
(2018.6.8)


松原美枝子さんのお話

Q:松原さんはいつごろから月島にお住まいですか。

ーお父さんが行徳から日本橋の魚河岸へ

私が生まれる前から、父と母が。行徳に実家あるんです。それで父親が魚が好きで、一人だけ単身で、日本橋にまだ魚河岸があったときに来ちゃったんです。そこで住み込みでやってて、やっぱりお魚とかさばいたりするのが好きだったみたいね。結構長く行ってましたね。また器用なの、それが。だからお刺身つくってもきれいに盛ってくれるから、やっぱりああいう食べ物は飾りですよね。

 

Q:一種の芸術品ですものね。

そうですね。だから父親がやったのはすごくおいしそうに見える(笑)。母なんか、ブツブツって切っちゃうから。でも食べてみると、ものは同じだからいただきますけどね。でもやっぱり父親がやっているときれいに並べて。だからそういうので私達を育てたから。その割にそういうことは私できないの。

 

 

Q:お兄さんはそういう血を継いだんじゃないですか?

兄はだめ、割合に。一段さがって甥の方が上手ですよ。器用です。だからやっぱりあれは血でつながるんじゃないんだね。やっぱり小さい時からおじいちゃんがやるのを見てたり。うちの兄はあまり上手じゃなかったから。ひいおじいちゃんのを見てたから、やり方なんかは分かるけど。

 

 

Q:お父さんは魚河岸に勤めていらしたんですね。

ーお父さんは本当は大家さん業

そうです、そうです。父のうちは、大家さんなのよ、本当は。
月島じゃなくて、千葉県のみなとって、渡ってすぐのところにあるんですよ。そこで大家やってたり、おじいさんっていう人は、80いくつまで自転車に乗ってそれの集金に行って。うちを貸しているでしょ。だから80いくつまで、自転車によく乗れたもんだなと思って。私なんか、80前になって自転車に乗れないですもん、怖くて。

 

ーお母さんはお酒を商っていた

だから父親のうちは、割合いいおうちだったのよ。母のうちはお酒を売ってたのかな。だから、私達が夏休みに行っていると、お酒を飲みにみんな、お手担ぎっていうのかな、皆さん担いで持ってくるでしょ。皆さん疲れたらそこで一杯やっておうちへ帰るという感じで。

 

Q:じゃ、お母さんは飲み屋さんのような感じもやっていらした?

そう、母親のほうはね。父親のほうは、大家さんで、デンとしてたから。そのかわり、おばさんの内職がわりに、やっぱり使っている人がいるから、よそ行って飲むよりも自分のところで飲んだ方が結局安くあがるでしょ。そういうので、そうすると、おばあさんのほうも身入りになるから。やっぱり考えてましたね、そういうの。私なんかそんなこと考えもしないけど。

 

 

月島の路地の風景

松原さんへのインタビュー 1/8   (インタビュアー宮本)
(2018.6.8)


昔ながらのご近所づきあい

Q:今のご近所づきあいはどうやっていますか。

ご近所とつきあってますよ。

今は、女房もそうだけど、みんな年取ってきているでしょ。ラジオ体操とか、ほとんど、向こう三軒両隣、みんなそろってどこか運動に行っているという。町を歩くとか、体操に行くとか、どこかの体操教室に行くとかって。ほとんど、何人くらいいるんだろう、周りに随分いますよ。同じように年取っているけど、若い人じゃなくて、年配の人。みんな付き合っていますよ。

 

ー醤油や味噌を借りたり、おすそ分けも

それこそ、借りられますよ。醤油も味噌もやり取りしてますよ。

それからおすそ分け。なんか持って来たり。そういうことはやってますね。この間ジャムを持ってきてくれた人がいますよ。

 

ー雨が降ったら、隣の家の洗濯物を取り込んだ

昔は、雨が降ったら、隣の家に上がって行っていっしょに洗濯物を取り込んだものですよ。隣の人も一緒に来るんだからね。

 

ー鉢植えの水やり、路地の掃除などはお互いに今でもやっている

水やりとか掃除も、早く起きて暇のある人間がやるんですよ。
これは今でもやっていますね。

 

Q:町内会の班はどうやっていますか。

班でやってますよ。班で、見届けじゃない、なんていうんだろう。年配の人を確かめに行く運動、運動じゃない、そういうこと路地でもってやってますよ。あそこは第何班っていうのかな、ときどき声かけたり、ちょっと来ないとわざわざ行ってみて、のぞいてみたりするのは何人か、四人くらいいるのかな、その近所でやってます。年寄りが年寄りの面倒見ているっていうか、そんなことはやってますね。

 

Q:班長は交代になっていますか。

班長は交代です。今、班長は、安田さんところの娘というか、あちらが当番じゃないかな、今は。あれは一年一年で替えているんですよね。

 

Q:そうですよね。うちも基本的には一年で一緒ですね。

けっこう近所づきあい、やっぱりしてますよね。ということは、新しく入ってきた人は2世帯だけかな。あとはみんな前からいる人ですよね。で、若い人でといったって、親がすぐそばに住んでてここに来たっていうだけの話だから、まったく新しい人っていうのは2世帯くらいしかないかな。だから変わらないといったら変わらないですね。そういうことはあまり進展がないんだか、進歩がないんだか。

 

Q:回覧板も相変わらずですか。

回覧板もきてます。町のことになると、どこでもそうだろうけど、新しく入った人のゴミの出し方っていうのは問題ですよね。問題っていうよりも知らないからね。それで、うちの前はたまり場でしょ?  あれ、カラスがつつくんだよね。そうすると隣の奥さんとうちの女房が午後ぐらいに毎日掃除して。先生とこもどこかそのへん、そうでしょ?

それで、これは今日の話じゃないけど、若い人たちは朝早いんですよ。女房が寝ている頃にゴミおいていくんだよ。立って見ているわけにもいかないから。ちゃんと紙貼りますけどね。分かればなおるから。

っていうような具合で、近所づきあいは、うまくというか、いやいやでもなんでもつきあってますよね。

 

ー隣の人の宅急便を預かる習慣は今も続いている

それこそ、分かりやすいのは、荷物を、配達に来るでしょ。隣の人も預かってくれるし、うちも預かるわけ。裏の人のも、隣の人のも。あれ不思議なもので、前の人のは預からないんですよね。同じ前の人とも仲良くしているけども、前側の人の荷物は預からないで、自分側というか。で、心得たもんで、「誰々さんの、お願いします」って。ヤマト便とか、そういうの、くるんです。それで預かってて。とてつもない高価なものは預けないんだろうけどさ。ゆうパックとかヤマト便くらいのその程度の品物はよく預かりますよ。預かるし、隣の人も預かってくれる、そういうことをやってますよ。今もやってます。

 

Q:お祝い包んだりとか、お葬式のときにみんなで出し合ったりとか。

それもいきますよ。金額はそんなに高くないんですよね。だって、お互いに知ってるというか、懐具合とか。急に金額持ってったら、「あのうち、おかしくなったんじゃないか?」(笑)

 

Q:うちなんかももらいましたから、結婚したときに。

そうでしょ。それで手伝ってもくれるしね。住めば都とはよく言うもんで、どこかいいところを見つけて住んでいるんでしょうけどね。まあ、よその芝生を見ればきりがないけれど、芝生はないけど、いいんじゃないかなと。

 

黒野さんの玄関先の花々

黒野さんへのインタビュー  10/10(インタビュアー志村先生)
(2018.5.27)


三間道路と川面の光は心の安らぎ

Q:現在の話で、すぐ思い浮かぶことは何かありますか。

ーガラスに反射する光と川面に当たる光の反射の具合は違う

ここのところは三間道路でいいけども、
だいたいガラスが嫌いですから、ガラスに直接にあたって反射してくる光と、川の上の水面にあたった光の曲がり具合とか、まったく違うでしょ。

ー高い建物を見て生活するのと三間道路の目線で生活するのとは違う

月島はまだいいけど、勝どきのほう、晴海でもいいですよ、新しいまち。
建物そのものはいいにしても、だいたいがあちこち言うと、上を見て歩きすぎる、建物が高いから、自分の目線とか、三間道路の目線で生活するということが少ないですよね。
何だか知らないけど、口あいて上のほうばっかり見ているから、そういうのが嫌いだと。
そういうことを言うと、何も話にならないだろうけど。

 

ー川面に映る光の反射は心に安らぎを与えてくれる

それはどういうことから感じるかというと、水面に写る光の反射具合、あれには荒い時もあるけど、凪いでる時とかもあるけど、あれには心に安らぎを与えると、それが水面に反射する光だと。高層ビルのガラスから直接やってくる、あんなものは大嫌い。それからドライだと。

それと雷、落雷のときに高層ビルの間に行ってみてくださいよ。音。光もそうだけど、あの音のやかましさ。ガンガン響いて。あれ、三間道路、ここにはないですからね。やかましいのはみんなどっかいっちゃうんだから。それが段々顕著になってきたんですね。

 

Q:落ち着かない?

うん、まあ、それは時代だから、そういうことなんでしょうけど、まあ・・・。

ここがどうなるか難しいけれど、やっぱり街全体がドライになったということです。

言葉を悪くすれば、殺伐としているということだよね。で、面白くないと。そういうふうに思います。

 

朝潮運河の夕日

黒野さんへのインタビュー  9/10(インタビュアー志村先生)
(2018.5.27)


ご近所はマルハと旭倉庫関係の人

Q:黒田さんの路地にはどういう人が住んでいましたか?

ー大洋漁業と旭倉庫関係の人

あそこには大洋漁業の関係の人とか、それと魚屋。
大洋漁業関係の人が多いですよね。船員とかそういうのじゃなくて。

 

Qマルハの倉庫ですよね?

マルハの直接、氷を扱う人間とか、いわゆる事務方じゃない人が多かったですね。それと魚屋と。

あと、一番後ろが運送屋でしたね。どこの運送屋かといったら、旭倉庫専用の運送屋ですからね。だから、うちの路地のところは旭倉庫と大洋漁業関係の人間が住んでいました。ごくごく近いところでくっついて生活をしていたということですね。

 

Q:会社とか工場とか倉庫とか、近くに何があるかで、区画ごとに住む人も変わっていったんですね。

そうですよ。今みたいに通勤圏が何時間とか何キロとかそういう話じゃないですからね。せいぜい自転車か歩いて行かれる範囲内のことだから。

勝どきの渡しができたというのは工員のためにできたのね。人間を運ぶためにできたんだから。わざわざ渡しに乗って向こうに行って仕事してくるやつなんていやしないですよ。

 

Q:マルハさんと旭倉庫さんは、お住まいから半径50m以内ですか。

うちの路地のことでいうと、半径50m。

Q:そんな人たちが大部分だったんですね。

大部分です。月島はそんなところですよ。

黒野さんへのインタビュー  8/10(インタビュアー志村先生)
(2018.5.27)

 


知らない人まで味噌を借りに来る

Q:家庭を持たれたとき、ご近所づきあいはいかがでしたか。

ーうちは酒屋だった

うちは酒屋でしたから。親爺は酒を商売にしていましたが、親父はすぐに死んでしまって。おふくろがただ座っているだけで店の人を何人か使ってて。それで戦争になって、空襲で緑町に越して、3月9日の空襲で従業員がみんな死んじゃったんです。

ー知らない人まで味噌を借りに来る

お袋が一人になって、あとは、店にあるものを食って、つないでいたということで。ですから、一応食い物があるから付き合いがいいですよね。米の貸し借り、味噌の貸し借りやりますから。なんでもなくて、知らないでも近所の人が来て座っているんですからね。何しているのかと思ったら、「味噌借りに来た」とか、そういう話。すぐ隣のうちでもそうですよね。知らない人が座っていて。まったく知らない人。そこの親爺は隣の部屋で寝ているが、知らない人が座っていました。

 

 

Q:それは信頼していたからですか。

警戒したって、とられるものはないですね。いくら隠してもたかが知れているから。入ったって、持っていくものは、それこそ、水飲むくらいのもので、そんなことです。みんなそうですよね。

 

Q:みんなそれで忙しいというわけでもないから、味噌借りに来て、それでゆっくりして、みたいな感じですね。

一応、仕事を持っている人は出かけてて昼間いないですからね。

ー月島は下請け工場の行員の町

それから、月島で、河岸に勤めてて、かるこ(軽子)やったりというのはもっと後の話ですね。それより前は工員ですよ。下請とか工員でね。一段落してから食い物というか、河岸に行って食堂するということですから。

浜藤だって佃権だって大きくなったのはずっと後ですよ。元々あったけれども、というふうに私の近所では思っていますよね。

やっぱり鉄工所ですよ。下請の鉄工所のほうが幅を利かせているというか、それの下請ですよね。石川島も含めて、石井鉄工、石川鉄鋼もあるけど。船なんていうのは部品すごいですからね。一万とか二万とかいう部品の話じゃないから、いろんなシャーリング専門にやるだけの店とか、研ぐだけの仕事とか、ものすごいですよね。

 

ー佃は箸と茶碗と醤油が似合う町
月島は手づかみとソースの町

私の印象としては、佃は別として、月島は工員ですよね。いわゆる油ですよ。向こう佃は醤油ですから、こちらはソースですよ。箸と茶碗と醤油が似合う町と、手づかみとソースの町と。品のないこと言うけど。自分の住んでいる町だから、そういうこと言うけど。そういうところですよね。ただ格好つけないですよ。

黒野さんへのインタビュー  7/10(インタビュアー志村先生)
(2018.5.27)

 


子供たちが夢見た職業は靴磨き

Q:子供時代、月島で学校に通っていた頃の話をしていただけますか。

若かりしというのは、月島にいるのは学校に行くか、だから月島で若かりし頃の思い出というのはないですね。もう少しすると学生運動に巻き込まれていくけど、その前は・・・。

 

ー月島に映画館があった

ー子供たちがなりたい職業は

そこに映画館があったでしょ。街頭録音が今の交番の前でやった。たしか藤倉アナウンサーだったと思う。みんないろんな意見を言って、「何になりたい?」という話をしたときに、やっぱり時代ですね。「靴磨きになりたい」って言った。ケーキ屋さんとかパン屋さんなんか出てこない。あとは、「輪タクやりたい」。大人はなんて言ってたかわからないけど、あのときは、子供に聞く街頭録音だったんですよ。

 

ー街頭テレビ

それからもう少したつと街頭テレビ。今の説教所のところ。各家庭にはテレビはないからそこに行って見る。

飲み屋とか飯屋にはあるけど、そっちには行かないで、そっちに行って見る。

小学生かちょっと上の頃かな。
レスリングも見たし、山下兄弟、柔道とプロレスラーが試合したときがある。意外と知らないかもしれないけど、ヤマガミテツヤ、カワカミリンセイ、タイトル保持者ですよね。ジムがありました、勝どきに。そこからかなりの選手が出ていますよね。

東佃にハシヅメ、水泳、彼が住んでいた。古橋よりちょっと後ぐらい、たしかハシヅメ、あれも月島に住んでいたんですよね。

あとは、野球選手がいた。フジムラじゃなくて。おれもよく知らないけど、それも住んでいましたよね、月島に。

街頭テレビの頃はそれくらいかな。

 

ー子供が配給のために並んだ

並ぶというと、配給だから列に並ぶのは子供の役目ですからね。タバコでもビールでも、並ぶのは子供の役目ですね。要するに場所取りですよ。ろくなことはやっていないですね。

黒野さんへのインタビュー  6/10(インタビュアー志村先生)
(2018.5.27)

 


豊海町は潮干狩りの名所だった

Q:子供時代は川で遊んだという思い出が多いですか。

今は、川に対する思いというのがないですよね。

いつも言っているけど、月島はついこの間までは東京湾の最北ですからね、水と近いのは当たり前のことで、何ら怖いとも思わないし、濡れても嫌だとか思わないし、そういう遊びをしていました。

今の豊海町が、2号地のすぐ次の時は3号地だけど、豊海町が埋め立てられたのはその後だから、あそこが海水浴場であった時は私は知らないんですよ。

あそこが潮干狩りの名所である、遠浅ですからね。あさり、しじみと、よく売りに来ると言うけど、それよりあそこに行って、売りに来れば買わなきゃならないけど、あそこでは取れるんだから、そういう遊びというか、それは切実な話ですよね。

 

Q:豊海町が潮干狩りの名所だったのは、戦後間もなくの話ですか。

 

間もなくです。帰ってきてすぐだから昭和21、22年頃の話です。それよりもうちょっと前になると、90歳近い人たちはもう泳ぎ、海水浴場です。場所としてそれがあったかは知らないけど、私の記憶では遠浅になったときに潮干狩りをやっていました。

シオフキがやたらととれる。だれも見向きがしないんですよ。足が早くてむきづらいし、たくさんとってきて、佃煮にすればいいと思うけど、それは調味料が必要なんですね。そういう頭は全然ない。私の周りにそういう人はいない。そこの川の水を汲んで塩を作ろうかと言っていた時代ですからね。このごろはアオヤギって言って、高級ネタだなんて言うから、この間も仲間と、「なに言ってんだ。あんなバカ貝なんて…」いう話をしていたんです。

 

Q:子供時代の話ですが、子供たちはたくさんいたんですよね。

 

子供はたくさんいましたよ。亡くなる人も多かったですよ。同級生でも、何人か病気で亡くなった人もいるし、子供は多かったですね。大人は少ないけど、子供は多かったですね。若い人がいないんだから。

帰ってきても、私が疎開から帰ってきて、昭和21年とか、おじさんはいないですよ。おばさんとおじいさん。

だから、あまり活発な遊びというようなことは2、3年過ぎるまではやらないですよね。子供同士だけだから、遊び方も分からないし、遊ぶものもないし、ですから、かけっことか、あっちいったりこっち行ったり、一番遊びやすいのは水の中という話になってきたんですよね。

黒野さんへのインタビュー  5/10(インタビュアー志村先生)
(2018.5.27)

 


三角ベースを三間道路でやった

Q:三角ベース(野球)を三間道路でやったんですか。

やりました。
三角ベースっていっているけど、電信柱から電信柱に行くんで、自分たちは三角ベースとそう称しているけど、実際は三角ベースではないんですね。
そういう遊びは前島さんなんかはよく知っていますよ。年配の人でいるけど、あの人なんかによく教えられてやってましたね。

 

Qここで三角ベースというのはすごいですね。

ええ、やりましたよ。
本格的な三角ベースは晴海のほうに行くと広っぱがありましたのでそこでやりましたけども、自分のうちの前でやったのはそう言うか分からないけど、野球ですよ。
球を棒で打って、電信柱をぐるぐる回って帰ってくる、そういう遊びをやりました。

黒野さんへのインタビュー  4/10(インタビュアー志村先生)
(2018.5.27)


三間道路と路地での遊び

 

Q:自転車のリールで遊んだのは、路地でしたか?

ここです。三間道路です。路地じゃできないです。今みたいに舗装していないですから。

三間道路は舗装してあったけど、戦争でこじれて補修していないから、ボコボコなんです。
ゆっくりやっているとすぐ倒れちゃう。それで勝つから得意になってやってましたね。

あと、缶けりはやりました。
竹馬は竹馬の友っていうけど、竹なんか、ないんですよ、我が家には。空き缶にひもを通してゲタにしてそれで歩くという、それも小さいけど要領がいいから、ポコポコポコポコ走って、競争して勝ってたということですね。
竹馬は得意じゃないというより、なかったんですね。

 

Q:路地では何で遊んだんですか?

路地でやるのがベーゴマなんです。三間道路ではやらないんですよ。メンコは外でやるんです。どういうわけか知らないけど、ベー床を持っていたあんちゃんが路地の奥にいたんじゃないかと思う。うちにはないですから。それを持ってきて。

ベーゴマの床は畳じゃないですよね。ズック、キャンバスでやったんですね。それで樽じゃないです。長方形。みかん箱とか、そういうのをさかさまにしてそこにはったんです。よく酒樽にゴザでもってやってるけど、それはちょっとランクが上の人の話です。

四角です。それで樽みたいに高くないです。もっとずっと下です。子供だからそうなんだろうけど、川口なんかでよく教えているような高さじゃないですね。あれは大人がやるから高いんで、子供がやるからもっと目線が低かったです。

黒野さんへのインタビュー  3/10(インタビュアー志村先生)
(2018.5.27)