子供時代は川で遊んだ

ー子供時代の遊びは、個人的には川での遊びだった

遊びというと路地とか、ベーゴマだのメンコだのという話もあるけど、個人的には川です。

筏で遊ぶとか、釣りをするためにゴカイを自分で捕る。そういうことですよね。

釣りと佃掘りで水浴びするようなこと、筏の上で遊ぶ。

それからマルハのところでは泳いで渡る。

水に関する思い出が多いですね。

野球とかメンコはもう少し大きくなってからの話です。

三角ベースとか、引き抜き、壁につかまって男の子、女の子を一人ずつ引っ張り出す遊びとか。

 

ーベーゴマはあまり好きじゃなかった

ベーゴマはやって遊ぶけど、やると負けて取られる。私はあまり好きじゃなかったですね。

対面でやるのと大勢で何人かでやるのと、弾き飛ばされるんだけど、大きい子は自分で削って低く薄くするんですよ。カクンベーというんだけど、角をつけて。

そうすると、私のはすぐに飛ばされて無くなるのであまり面白くなかった。

面白かったのは自転車のリール。あれを棒もって回して競争するんです。
私は小さいけど、足が速かったからけっこう勝つんですよ。
ちびでも足が速かったら勝つので、それはよかったですね。

 

黒野さんへのインタビュー 2/10(インタビュアー志村先生)
(2018.5.27)


黒野富太郎さんのお話

Q:黒野さんのプロフィールをお聞かせください。

志村先生と同じ通りだから。町名変更になる前は、昔で言うと、西河岸通り3-1っていうところです。今は月島1丁目ですね。でそこで生まれて育って、疎開以外、よそは知りません。

疎開は愛知県の父親の実家のほうに行きました。それが、半年くらいかな。3月末から12月半ばくらいまでだから、もうちょっとかな。あとは帰ってきてずっと同じところに住んでいるます。

ー小学校は月島第一小学校、中学校は月島第一中学校

小学校は月島第一小学校、中学校は月島第一中学校。今、それも学校もなくなったし何もなくなりましたね。場所は、小学校はちゃんとした建物があったけど、中学校は名前があるけれども、校舎はもちろんないです。校舎は当時の築地小学校。その1階2階のある一部分を一年生と二年生が借りてるわけです。で、三年生は佃小学校って分かれてる。

ー人数が多いので早番、遅番があった

そういうふうにやって、人数が多いから早番、遅番というのがありました。朝早くから昼までの子と、午後から夕方までの子と交代制でした。そこが中学校です。高等学校は行って、大学は月島に関係ないから・・、そういうところです。

月島第一中学校は今では影も形も残っていない

中学校というのはまったく今は影も形も名前も何もないですね。昭和24、5年くらいの中央区の古い地図を見ると、今の京橋築地小学校のところに、築地小学校の名前が抜けてて、月島第一中学校って書いてあるの。どうしてそうなっちゃったんだか知らないけど、調査したときに築地小学校のほうを抜かしちゃったのかな。中学校もあったんだけど、それは一部を借りてたんだからね。全体のスペースとしては小学校のほうが多いんだけど、地図に載っている名前は月島第一中学校になっているわけ。それは学校も名前も今は何もないということで。

で、志村先生の専門だけど、月島第一中学校というのは今、晴海高校があったところに、私が三年生の三月に卒業だから、三年生の三学期の終わりに近いころに校舎が出来たわけです。その校舎が、日本のヒューム管工法の最初のテスト校舎ということで売り出されたというか、テストに使った学校で、ためしにつくったんだろうけど、で、すぐ速攻壊してなくなっちゃったんです。

 

Q:お生まれは何年ですか。

昭和12年7月9日です。現在80歳と10か月。
今の年寄りは元気な人がいっぱいいるよね。昨日会ったのなんかものすごいよ。

 

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インタビューが始まる前に語ってくださった、
黒野さんの月島の印象

ー町が乾いた感じがする

町が乾いた感じがするんです。景観そのものにドライな感じがするんですよ。銀座も月島も。

高層建築のガラスのギラギラした感じ。ドライな感じ。

水面にさす水辺の反射と対照的です。

月島に育った人間としては、そう感じますね。

 

ー長屋は外も同じ、オープン

長屋は外も同じ、オープンです。

今感じていているのは閉鎖的というか、コンクリートというか、に囲まれていますね。

内と外、日本は比較的オープンですよ。話も今も聞こえるし、内の中はごく個人的なものだから。靴では入っていかないけど、もっとオープンなことですね。

コンクリートの壁の中の光と水の反射の光の具合は、月島がいい。川です。

 

黒野さんへのインタビュー 1/10(インタビュアー志村先生)(2018.5.27)