宮本邦夫氏のお話

Q:お生まれはどちらですか。

ー本籍は明石町、空襲のため昭和19年に長崎へ

本籍上の生まれは明石町なんですよ。川向うの明石町。昭和14年5月18日に生まれた。1939年。そこに昔は東京市立だったから、都になったのは16年か17年。府立東京市って言ってた。僕の戸籍を見ると、東京府東京市京橋区明石町になっているわけ。そういう時代なんですよ。生まれはそこなんだけど、昭和19年の12月の末くらいまではずっと月島で育ったわけ。で、空襲が19年の10月くらいから空襲がひどくなった。で、疎開しなければならないということになって、両親が長崎の出身だから長崎に疎開したの。で、長崎で終戦になって、住む家が、月島に英一君のおばあちゃんの兄弟が満州から来る、北海道から来る、っていうんで、僕らが住んでいた家に住みだしたわけ。

 

ー長崎から戻り、昭和56年まで月島に住んでいた

僕らが来られないというのがひとつ理由があって、昭和19年にぼくのおばあちゃんがなくなって、長崎におじいちゃんだけ一人になっちゃったわけ。で、養わなきゃいけないということになって、だれが面倒見るか、男の兄弟二人しかいなかった。英一君のおじいちゃんと僕のおやじ。で、結局おやじが、自分の親の、残った親の面倒を見るということになって、帰って来れなかった、石川島に。どういう話か知らないけど、僕だけが昭和27年、長崎の小学校を卒業してから東京へ来て、それでずっとあとは英一君のおじいちゃんの家でお世話になったと。で、昭和56年ですから、英一君のお母さん(民子)が死んだ年が昭和56年なんですよ、で、お母さんが7月に死んでるから、その三月前の、4月の8日にここに(佃3丁目)引っ越したんですよ。月島は相当長い間住んでるわけですよね。で、その後ずっとここに住んでるわけ。

 

仕事は大学出てから経営コンサルタントの仕事について、本なんかも書かせていただいて、全部で80冊くらい本を書いてるんですよね。で、今は75歳で仕事、引退、弟子たちに任せて、弟子が100人くらいいるんですよ。弟子に任せて、今は引退して4年になります。というのが大雑把なあれです。

 

ー日本語のボランティア活動

今はボランティアで。僕は外国で仕事することが多かったから。中国なんかは30年くらい行ってるんですよ。それで中国人のいろんな関係があるもんだから、頼まれて、留学生の日本語の指導とかやってるし、今言った協会の中央区の国際協会の日本語教室を8年前からずっとやっている。そのほかに個人的には外国人に、そこの相生の里って分かります? 川べりの立派な、あそこは中央区のあれだから、そこで働いているフィリピン人に日本語を教えてるんですよ。

 

ードラッカー先生からアメリカの経営学を学ぶ

アメリカの勉強したのはアメリカの経営学だから。ドラッカーって分かる?有名な経営学者でドラッカーという人がいて、その方が日本にずっと教えに来てた。その日本に来る時の招へいする団体に僕がいたわけ。ドラッカー先生のところでいろいろ教わってそれをベースにしてコンサルタントになったわけ。それで本を書くことができたんです。

 

Q:月島での生活のことを聞かせてください。

月島の生活ね。昭和27年の3月の末に東京に出てきて、英一君のおじいちゃんの家に2年くらい住んでた。下の2畳があったでしょ。あそこに2年くらい住んでて、で、昭和28年になって今成子ちゃんの家になっている貸している家があるでしょ。あそこにいた後藤さんっていたでしょ。後藤さんが引っ越したの、家つくって、そこに今度は僕が住むようになった。1階の2畳に住んでたわけね。で、上におばあちゃんのお姉さんがいたんですよ。知ってる?

 

うん、永山さんが住んでて、で、永山さんは昭和三十何年に亡くなったんだよね。永山さんとは5、6年一緒に住んでた。

永山さんの話は、有名な、司法試験にうかった方の奥さんだから。知ってると思うけど。

 

Q:おばあさんとすごくよく似てますね。

ーおじいさんが倒れて、いったん月島機械に就職

うん。そこで、ずっと住んでたわけね。で、先ほど言った昭和28年に、多賀男おじさん、英一君のおじいちゃんが倒れた。で、僕に言うには、高校にもやれないような状態になった、僕をね。っていうんで、就職したわけですよ。僕がね。就職して月島機械、今晴海にあるけど、昔は今の第一小学校のところにあったんですよ。で、そこに4年半くらい通ったわけです。おばあちゃんのところにご飯をごちそうになりながら。で、夜は日比谷高校という高校があって、当時有名な、東大に行く進学率の高いとこだった。そこの夜間部に行って、それでどうするかということになって家族会議を開いたことがあるのね。

 

それで多賀男おじさんとか、麴町のおじちゃんって分かる? おばあちゃんの弟。その人は早稲田を出て参議院のっていう話、きいたことない? 安孫子のおじさんっていうんだけど、麴町にいたの。武藏おじさんという人と、家族会議を開いたことがあるんだよ。

 

ー大学に進学すべきか、家族会議を開く

それで「反対する、大学いくの。このまま月島機械にいなさい」っていう話になったわけ。で、後藤のおじさんだけが、あの人苦労しているんだよね、苦労しながら日大かどっか行っている人なのよ。明治の人で、その人だけが大学行ったらどうか、って言い出したのよ。で、僕は行きたかったもんだから、で、卒業してから東大を受けたけどダメで、埼玉大学に行ったわけ。

 

ーアルバイトで学費を稼ぎ、経営コンサルタントになる

で、全部、食事なんかはごちそうになったけど、お金なんかは自分で働いてやらなきゃいけなかったからアルバイトして大学出て、最初小さな航空会社に行ったんだけど、台湾の会社だった。で、いろいろ問題があって辞めて、それで今の会社に入った。で、いろいろ勉強して、経営のほうを勉強して、で、もう一個転職して、ドラッカー先生を呼ぶ日本経営協会というところに就職して、で、いろいろ勉強してコンサルタントになった。

 

ーその後中小企業診断士になり、講師となる

で、国家試験の中小企業診断士というのがあって、それに受かって、そういう人たちを養成する学校も講師として行っていたし、全国の企業とかに指導にいった。役所の指導も行ったことがある。だから、白山の書記官研修所あったでしょ、行ったことありますよ。東京地裁も行ったことありますよ。教えに。

 

ー男性がこの路地は多かったので、夏は縁台でトランプ遊び

それで、中学時代のあれからいうと、子供が多かった。先輩後輩というか、順序があって、あそこの路地だと相沢さんっていう家知ってるでしょ、白木さんっていう方いないと思うけど、青木さんって今でもあるでしょ、それから竹下さん、経師屋(きょうじや)さん、男の人たちがいっぱいいたわけ。

相沢さんのお兄さんが僕らより3つ上で、僕は中学の時野球部だったから、その人も野球やってた。それでいろいろと遊んでくれて、あそこの路地に夏になると縁台出して、夕涼みしながらトランプとかそういう遊びをしながら過ごしたことが多いですよね。

ーベーゴマで遊ぶ

当時はまだ、遊ぶものというのは、お金出して遊ぶところがない時代だから、ベーゴマなんかをやったのを覚えてますね。路地に自分たちで箱につくってベーゴマやってたんですよ。

そういうのが覚えてますね。

 

Q:中学生時代はベーゴマで遊んでいたんですね。

やってましたね。男の人達が多かった。竹下さんでしょ。あの方、1年下だから。

経師屋さん、ふすまの張り替えやるところ、白木屋さん。あそこは竹下さんという名前だから。今や主人としてやっている人。彼、一年下なんですよ。その向こう側の路地に松本君なんていうのがいて、しょっちゅう遊んでたんですよ。両方の路地を。西仲通りを挟んで、だから勉強なんかあまりした記憶がないですね。ぼくは野球部だったから夏なんかは早朝練習というのがあるんですよ。5時くらいに起きていくんですよ。今頃になると明るいから。ほとんど勉強したという記憶がない。

 

 

宮本邦夫氏へのインタビュー  1/  (インタビュアー宮本)
(2018.6.20)

 

佃3丁目に見られる
水はけをよくするための工夫か

 


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