地域間交流のバレーボール大会

Q:中学生時代も、みんな路地や外で遊んでいたんですね。お金もないから工夫しながら。

外で遊ぶというのが一般的だったですよね。そういうのが昔は多かったと思いますよ。

ーほかの地域とバレーボール大会をやった

あとは、月島で覚えているのは、地域でいろんなことやってたよね。あそこの路地だけじゃなくて、例えば、中学の時に、あそこの四之部っていうでしょ。四之部の西、東ってあったわけね。今あるか知らないけど。で、その四之部だけで、中学の三年間でバレーのチームを作るわけね、あそこの一角だけで、それでほかの地域とバレー大会やってたの。

 

Q:場所はどこでやったのですか。

ー学校の校庭で、男女混合、地域の交流があった

どっかの学校の校庭だったと思う。でもね、男女混合。楽しかった。それで交流があったわけ。今でも一年下の女の人のね、たまたま竹下さんち、白木屋さんのところで立ち話してたのよ。

 

ー何十年ぶりに会っても、フルネームで名前を覚えている

そしたら、何十年ぶりかに会って、あなたオオタフミコさんですね?って言ったわけ。そしたら向こう驚いているわけ。オオタさんの名前知っているのはいいんだけど、下の名前まで普通憶えないじゃないですか?で、下の名前まで覚えてる、なんて言われましたよ。だって何十年ぶりで会ったから。そういう付き合いがあったんですよ。

ー学年が違っても地域の交流があった

だからみんながお互い知ってたね。今だと学年違うと分からないやつが多いじゃないですか。当時はそういう地域の交流があったんで、学年が違っても知っているというのがあったですね。たしかに。

 

Q:バレーボール以外にやったことは?

ー野球

野球はよくやってましたね。野球は広場がなくて、四号地ってわ分かる? 晴海ね。晴海がなんにもないときだから。

 

ー月島第一中学校の新庁舎は昭和27年に晴海にできた

で、中学が新校舎が晴海にできたばっかりなんですよ。昭和27年に新校舎、月島第一中学校というのが出来たんですよ。で、僕らが最初にそこに入ったわけ。

 

ー晴海のグラウンドは進駐軍が使っていた

で、その前が進駐軍がいたわけ。進駐軍が一年くらいいたかな。今の晴海のグラウンドがあるでしょ。あそこは前からあったわけ。で、進駐軍が使ってたんですよ、グラウンドは。

 

ー進駐軍が主催する野球大会

で、進駐軍が主催する野球大会があって、その進駐軍が挨拶するんですよ、英語で。で、塀なんかなんかないんですよ。網、鉄線の網があるでしょ、網しかないんですよ。それで、学校で英語を習うと、ヘイって言いながら米兵に話しかけて、そういうのをやりましたよ。昭和27年8年まで。

 

Q:たくましいですね。気合の入れ方が違う感じがしますね。

 

ー月島区民センターのところに月島第一小学校があった

当時は、月島、今、区役所のところが第一小学校があったわけでしょ。で、英一君も小学校あそこだよね。で、あそこは、中学はないんだから、中学の一部と、それと第三小学校も一緒だったんですよ、それでぎゅうぎゅう詰めだったんだから。昭和27年か8年くらいまで。とにかく子供が多くて、そういう時代だったですよね、僕らの時はね。

ー塾なんかない、遊ぶしかなかった

今みたいに塾なんかに通っている人いないから、もう遊ぶしかないんですよ。昭和20年代から30年代の初めはね。

 

宮本邦夫氏へのインタビュー   3/      (インタビュアー宮本)
(2018.6.20)

現月島区民センター(旧月島第一小学校)に面した
清澄通り沿いに咲く河津桜


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