地域間交流のバレーボール大会

Q:中学生時代も、みんな路地や外で遊んでいたんですね。お金もないから工夫しながら。

外で遊ぶというのが一般的だったですよね。そういうのが昔は多かったと思いますよ。

ーほかの地域とバレーボール大会をやった

あとは、月島で覚えているのは、地域でいろんなことやってたよね。あそこの路地だけじゃなくて、例えば、中学の時に、あそこの四之部っていうでしょ。四之部の西、東ってあったわけね。今あるか知らないけど。で、その四之部だけで、中学の三年間でバレーのチームを作るわけね、あそこの一角だけで、それでほかの地域とバレー大会やってたの。

 

Q:場所はどこでやったのですか。

ー学校の校庭で、男女混合、地域の交流があった

どっかの学校の校庭だったと思う。でもね、男女混合。楽しかった。それで交流があったわけ。今でも一年下の女の人のね、たまたま竹下さんち、白木屋さんのところで立ち話してたのよ。

 

ー何十年ぶりに会っても、フルネームで名前を覚えている

そしたら、何十年ぶりかに会って、あなたオオタフミコさんですね?って言ったわけ。そしたら向こう驚いているわけ。オオタさんの名前知っているのはいいんだけど、下の名前まで普通憶えないじゃないですか?で、下の名前まで覚えてる、なんて言われましたよ。だって何十年ぶりで会ったから。そういう付き合いがあったんですよ。

ー学年が違っても地域の交流があった

だからみんながお互い知ってたね。今だと学年違うと分からないやつが多いじゃないですか。当時はそういう地域の交流があったんで、学年が違っても知っているというのがあったですね。たしかに。

 

Q:バレーボール以外にやったことは?

ー野球

野球はよくやってましたね。野球は広場がなくて、四号地ってわ分かる? 晴海ね。晴海がなんにもないときだから。

 

ー月島第一中学校の新庁舎は昭和27年に晴海にできた

で、中学が新校舎が晴海にできたばっかりなんですよ。昭和27年に新校舎、月島第一中学校というのが出来たんですよ。で、僕らが最初にそこに入ったわけ。

 

ー晴海のグラウンドは進駐軍が使っていた

で、その前が進駐軍がいたわけ。進駐軍が一年くらいいたかな。今の晴海のグラウンドがあるでしょ。あそこは前からあったわけ。で、進駐軍が使ってたんですよ、グラウンドは。

 

ー進駐軍が主催する野球大会

で、進駐軍が主催する野球大会があって、その進駐軍が挨拶するんですよ、英語で。で、塀なんかなんかないんですよ。網、鉄線の網があるでしょ、網しかないんですよ。それで、学校で英語を習うと、ヘイって言いながら米兵に話しかけて、そういうのをやりましたよ。昭和27年8年まで。

 

Q:たくましいですね。気合の入れ方が違う感じがしますね。

 

ー月島区民センターのところに月島第一小学校があった

当時は、月島、今、区役所のところが第一小学校があったわけでしょ。で、英一君も小学校あそこだよね。で、あそこは、中学はないんだから、中学の一部と、それと第三小学校も一緒だったんですよ、それでぎゅうぎゅう詰めだったんだから。昭和27年か8年くらいまで。とにかく子供が多くて、そういう時代だったですよね、僕らの時はね。

ー塾なんかない、遊ぶしかなかった

今みたいに塾なんかに通っている人いないから、もう遊ぶしかないんですよ。昭和20年代から30年代の初めはね。

 

宮本邦夫氏へのインタビュー   3/      (インタビュアー宮本)
(2018.6.20)

現月島区民センター(旧月島第一小学校)に面した
清澄通り沿いに咲く河津桜


宮本邦夫氏のお話

Q:お生まれはどちらですか。

ー本籍は明石町、空襲のため昭和19年に長崎へ

本籍上の生まれは明石町なんですよ。川向うの明石町。昭和14年5月18日に生まれた。1939年。そこに昔は東京市立だったから、都になったのは16年か17年。府立東京市って言ってた。僕の戸籍を見ると、東京府東京市京橋区明石町になっているわけ。そういう時代なんですよ。生まれはそこなんだけど、昭和19年の12月の末くらいまではずっと月島で育ったわけ。で、空襲が19年の10月くらいから空襲がひどくなった。で、疎開しなければならないということになって、両親が長崎の出身だから長崎に疎開したの。で、長崎で終戦になって、住む家が、月島に英一君のおばあちゃんの兄弟が満州から来る、北海道から来る、っていうんで、僕らが住んでいた家に住みだしたわけ。

 

ー長崎から戻り、昭和56年まで月島に住んでいた

僕らが来られないというのがひとつ理由があって、昭和19年にぼくのおばあちゃんがなくなって、長崎におじいちゃんだけ一人になっちゃったわけ。で、養わなきゃいけないということになって、だれが面倒見るか、男の兄弟二人しかいなかった。英一君のおじいちゃんと僕のおやじ。で、結局おやじが、自分の親の、残った親の面倒を見るということになって、帰って来れなかった、石川島に。どういう話か知らないけど、僕だけが昭和27年、長崎の小学校を卒業してから東京へ来て、それでずっとあとは英一君のおじいちゃんの家でお世話になったと。で、昭和56年ですから、英一君のお母さん(民子)が死んだ年が昭和56年なんですよ、で、お母さんが7月に死んでるから、その三月前の、4月の8日にここに(佃3丁目)引っ越したんですよ。月島は相当長い間住んでるわけですよね。で、その後ずっとここに住んでるわけ。

 

仕事は大学出てから経営コンサルタントの仕事について、本なんかも書かせていただいて、全部で80冊くらい本を書いてるんですよね。で、今は75歳で仕事、引退、弟子たちに任せて、弟子が100人くらいいるんですよ。弟子に任せて、今は引退して4年になります。というのが大雑把なあれです。

 

ー日本語のボランティア活動

今はボランティアで。僕は外国で仕事することが多かったから。中国なんかは30年くらい行ってるんですよ。それで中国人のいろんな関係があるもんだから、頼まれて、留学生の日本語の指導とかやってるし、今言った協会の中央区の国際協会の日本語教室を8年前からずっとやっている。そのほかに個人的には外国人に、そこの相生の里って分かります? 川べりの立派な、あそこは中央区のあれだから、そこで働いているフィリピン人に日本語を教えてるんですよ。

 

ードラッカー先生からアメリカの経営学を学ぶ

アメリカの勉強したのはアメリカの経営学だから。ドラッカーって分かる?有名な経営学者でドラッカーという人がいて、その方が日本にずっと教えに来てた。その日本に来る時の招へいする団体に僕がいたわけ。ドラッカー先生のところでいろいろ教わってそれをベースにしてコンサルタントになったわけ。それで本を書くことができたんです。

 

Q:月島での生活のことを聞かせてください。

月島の生活ね。昭和27年の3月の末に東京に出てきて、英一君のおじいちゃんの家に2年くらい住んでた。下の2畳があったでしょ。あそこに2年くらい住んでて、で、昭和28年になって今成子ちゃんの家になっている貸している家があるでしょ。あそこにいた後藤さんっていたでしょ。後藤さんが引っ越したの、家つくって、そこに今度は僕が住むようになった。1階の2畳に住んでたわけね。で、上におばあちゃんのお姉さんがいたんですよ。知ってる?

 

うん、永山さんが住んでて、で、永山さんは昭和三十何年に亡くなったんだよね。永山さんとは5、6年一緒に住んでた。

永山さんの話は、有名な、司法試験にうかった方の奥さんだから。知ってると思うけど。

 

Q:おばあさんとすごくよく似てますね。

ーおじいさんが倒れて、いったん月島機械に就職

うん。そこで、ずっと住んでたわけね。で、先ほど言った昭和28年に、多賀男おじさん、英一君のおじいちゃんが倒れた。で、僕に言うには、高校にもやれないような状態になった、僕をね。っていうんで、就職したわけですよ。僕がね。就職して月島機械、今晴海にあるけど、昔は今の第一小学校のところにあったんですよ。で、そこに4年半くらい通ったわけです。おばあちゃんのところにご飯をごちそうになりながら。で、夜は日比谷高校という高校があって、当時有名な、東大に行く進学率の高いとこだった。そこの夜間部に行って、それでどうするかということになって家族会議を開いたことがあるのね。

 

それで多賀男おじさんとか、麴町のおじちゃんって分かる? おばあちゃんの弟。その人は早稲田を出て参議院のっていう話、きいたことない? 安孫子のおじさんっていうんだけど、麴町にいたの。武藏おじさんという人と、家族会議を開いたことがあるんだよ。

 

ー大学に進学すべきか、家族会議を開く

それで「反対する、大学いくの。このまま月島機械にいなさい」っていう話になったわけ。で、後藤のおじさんだけが、あの人苦労しているんだよね、苦労しながら日大かどっか行っている人なのよ。明治の人で、その人だけが大学行ったらどうか、って言い出したのよ。で、僕は行きたかったもんだから、で、卒業してから東大を受けたけどダメで、埼玉大学に行ったわけ。

 

ーアルバイトで学費を稼ぎ、経営コンサルタントになる

で、全部、食事なんかはごちそうになったけど、お金なんかは自分で働いてやらなきゃいけなかったからアルバイトして大学出て、最初小さな航空会社に行ったんだけど、台湾の会社だった。で、いろいろ問題があって辞めて、それで今の会社に入った。で、いろいろ勉強して、経営のほうを勉強して、で、もう一個転職して、ドラッカー先生を呼ぶ日本経営協会というところに就職して、で、いろいろ勉強してコンサルタントになった。

 

ーその後中小企業診断士になり、講師となる

で、国家試験の中小企業診断士というのがあって、それに受かって、そういう人たちを養成する学校も講師として行っていたし、全国の企業とかに指導にいった。役所の指導も行ったことがある。だから、白山の書記官研修所あったでしょ、行ったことありますよ。東京地裁も行ったことありますよ。教えに。

 

ー男性がこの路地は多かったので、夏は縁台でトランプ遊び

それで、中学時代のあれからいうと、子供が多かった。先輩後輩というか、順序があって、あそこの路地だと相沢さんっていう家知ってるでしょ、白木さんっていう方いないと思うけど、青木さんって今でもあるでしょ、それから竹下さん、経師屋(きょうじや)さん、男の人たちがいっぱいいたわけ。

相沢さんのお兄さんが僕らより3つ上で、僕は中学の時野球部だったから、その人も野球やってた。それでいろいろと遊んでくれて、あそこの路地に夏になると縁台出して、夕涼みしながらトランプとかそういう遊びをしながら過ごしたことが多いですよね。

ーベーゴマで遊ぶ

当時はまだ、遊ぶものというのは、お金出して遊ぶところがない時代だから、ベーゴマなんかをやったのを覚えてますね。路地に自分たちで箱につくってベーゴマやってたんですよ。

そういうのが覚えてますね。

 

Q:中学生時代はベーゴマで遊んでいたんですね。

やってましたね。男の人達が多かった。竹下さんでしょ。あの方、1年下だから。

経師屋さん、ふすまの張り替えやるところ、白木屋さん。あそこは竹下さんという名前だから。今や主人としてやっている人。彼、一年下なんですよ。その向こう側の路地に松本君なんていうのがいて、しょっちゅう遊んでたんですよ。両方の路地を。西仲通りを挟んで、だから勉強なんかあまりした記憶がないですね。ぼくは野球部だったから夏なんかは早朝練習というのがあるんですよ。5時くらいに起きていくんですよ。今頃になると明るいから。ほとんど勉強したという記憶がない。

 

 

宮本邦夫氏へのインタビュー  1/  (インタビュアー宮本)
(2018.6.20)

 

佃3丁目に見られる
水はけをよくするための工夫か

 


ちょっと振り向くような街づくりがいい

Q:最近は月島観音縁日が毎月27日、小さい規模になって寂しい思いがしてますけど、これはいつ頃からやっていたんですか。

あれは、最初のころはどうなんでしょうね。戦後いつごろからかしらね。そのへんは主人に聞いたほうが早いかしらね。もっと年配の方じゃないと分からないかな。割と戦後すぐからじゃないかしらね。

 

現在の月島観音様入り口(三番街)

 

Q:相生橋を渡ったり、渡船に乗って大勢の方がやって来たと、聞いていますが。

そう、結構向こうから船で月島に来たって聞いてますよ。だから意外とそういうのは、戦後割と早くからやったと思いますよ。

 

Q:最近は縮小されて寂しくなりましたね。

ほんと、あれがなくなり、これがなくなりってね。参加する人が少ないから。

ということは、人が少ないから、やっていけないんじゃないかな。

 

Q:現在のことについてお尋ねします。ご自身のことも含めて、生活とかご近所とのおつきあいとか。

今、時代の流れでしょうがない。もんじゃ屋さんも増えて、もんじゃ屋さんばっかしになって、それぞれみんながんばってるから。横浜の中華街じゃないけどね。それはそれで町が成り立っているわけだから。

ー路地、路地に、買って楽しめるようなお店があるといい

あともう少し路地・路地に、買って楽しめるようなお店があると、将来いいかなって私は思うのね。もんじゃ屋さんだけじゃなくて、ちょっと買い物もできて、そういうお店もあったほうが、もっと人が来るんじゃないかなと私は思うの。

ー碁盤の目のような路地を利用して、もんじゃオンリーじゃなく

もんじゃ屋さんだけじゃなくてね。ちょうど碁盤の目みたくなっているから、路地・路地を利用して、そういうところに、いろんな楽しむ、買い物ができたり、そういうものができると月島もいいんじゃないかなと私は思います。もんじゃオンリーだけじゃなくてね。っていうのが、将来はね、私はそうなってもらいたいと思いますね。

 

 

Q:月島のことをあまり知らないでマンションに住む人に、月島ってこういうところだったというところをお伝えしたいですね。

 

どんどん古いところが壊されていっているから。なんていったらいいか、価値観っていうか、全然違う感覚で若い方は見てらっしゃるだろうから。

ーちょっと振り向くような街づくりを

すぐ銀座もあるし、足の便もいいですから。もっと昔のいいものを少しでも壊さずに戻し、ちょっと振り向くような感じでまちづくりをしていけば、外国からくるお客様もおいでになるだろうし、そういうので成功している町とか市があるでしょ。

だからそういうのを、ちょっと町の方が勉強して街づくりをちょっと考えた方がいいんじゃないかなと思いますね。今のまんまじゃなくてね。絶対アイデアはあるから。

そうやっていかないと、ただもんじゃだけで埋もれてしまうとか、危機感はありますね。だから「あそこで食べたけど、あそこであれ売ってて」「あれもよかった」とか「楽しかった」とかいうものが同時にないと私はダメだと思う。

 

ー娘の時代、娘なんかも、「あれやった」「これやった」「楽しかった」って、クラス会で集まったりすると、皆さん、共通の思い出があるわけ。やっぱり同じことを言ってますよ。「浴衣着て楽しみだった」とかね、「あれ食べておいしかった」とかね、言ってますよ。「ああいうふうになればいいのにな」ってね。

今もう孫の世代ですけどね。孫たちにもああいうのを味あわせてあげたいなって思いますよね。それを多少経験しているのがうちの娘達ね。50代とか、40代後半とか。それ以降の若い方は、経験している方が少ないかなと思う。

 

 

Q:今度はお嬢さんたちの年代の方が思い出だけじゃなくて、残していってほしいですね。

私はたぶん一番いい時を経験して、今きてますから、ある意味、幸せだったなと思うのね。娘はそれをちょっとかじったくらいで、だから次の孫はあまりよく分からない。だから、娘もたまに、お母さんあれは楽しかったね、あれがよかったこうだね・・・ってちらっと言うんですよね。

孫とは話が違ってくる。思い出として話してあげるだけ。興味がないわけよね。こういうのを見せない限り分からないわけ。いくら言っても。

だからこういうのは孫のためにとってあるの。わたしがあれした後、孫にあげるために。

『中央区沿革図集[月島編]』

池本さんへのインタビュー   5/5  (インタビュアー宮本)
(2018.6.14)


季節の行事がくるのが楽しみ、支えたり支えられたり

Q:もうすぐ草市ですね。

商店街のお盆の草市なんか、とても楽しかったんじゃないかな。

今でも、中年の方なんか、「あの頃の草市楽しかったな」って。なんでこんな人が集まるのっていうくらい子供達がいっぱいでね。動きがとれないくらい。

 

お祭りの時も担ぎ手が多かったからすごかったですね、あの熱気がね。今はよそから担ぎに来る方がいるっていう時代だからね。あの頃は地元の方だけでもう手一杯だったけどね。

今年はまたお祭りですもんね。震災のあれで一年ずれちゃったけどね。

 

 

Q:うちの子も草市は楽しみでしたね。

そうそう、地元の子供達はね。

ー豆まきもすごい、人がわあっと揺れるという感じ

豆まきなんていうと、人が動くっていうのはこういう感じだって思うくらい、人がわあっと揺れるっていうの。「すごいな」っていう記憶がありますよ。そんなことでもみんな楽しい。

ーお盆には灯籠流しも

あと、お盆は灯篭流しが。今年からやらないみたいだけど、灯篭流しがあって、結構皆さんが参加して、仏様のご供養に灯篭をみんなあれして、ここをみんな歩くんですもん。

 

ー稚児祭り

それから、稚児祭りも何年かに一度あったかな。うちの娘なんかが出て写真が残ってるから。

稚児祭りもあったしね。ただいま、子供が減ってきてるから。そういった行事がだんだんできなくなっちゃうのね。

 

Q:稚児祭り、見たことないですね。

 

今も各部でやってますけど、昔は三之部の、善光寺様のあそこを中心にやったから。だから、ここへ全部集まるんですよ。だから、「うわあ、うわあ」って感じ。

それで危ないっていうんで、各部、一之部、二之部、三之部、四之部と分かれるようになった、今はね。

昔は、この三之部のこの観音様の前が中心だったから、人もすごい出たわけよね。ここはね。人が波のようにね。そういう経験があったわね。

 

 

Q:お嫁に来られて、よかったと思ったこととかは?

ーいろんな行事があるということ

いろんな行事があるっていうことよね。さっき言ったように、お彼岸があったり、稚児祭りがあったり、草市があったりお祭りがあったり、いろんな昔からやってきた行事があったというのがすごくいいなと思ってましたよね。

ーみんなで協力しないとできない

それに人がいろいろ携わって、みんなで協力しないとできないでしょ。だから、そういうことで成り立っていったんじゃないかしらね。

 

Q:それが長屋で住んでいる皆さんと商店街の皆さんとが持ちつ持たれつでやってこれたのでしょうか。

 

そう。私がお嫁に来た時にいたおじさんおばさんたちがいた頃が一番仲がいい時代ね。

その後世代が変わってきて、娘さんとか息子さんになったときに、だんだん薄くなってきちゃう。世の中も変わってきて、交通も変わってきて、あちこち目を向けることも増えたでしょ。

それまでは、ここの中でというのがあったけど、いろんな多様性が出てきちゃったから、自然とそういう変化がね。それはもうしょうがないのかな、時代の大きな流れというかね。

 

(沿革図集を見ながら)

こういう商店街があったんですもんね。これ絵を見ないと皆さん信用しないわよ。今、もんじゃ屋さんばっかりだからね。

 

 

Q:この前月島第一小学校の周年行事のときに、原画が公開されたらしいです。

あ、そう。上から見るとこうなんだけどね、昔は何もなかった、今はこのへん全部埋まってるでしょ。

この本出た時、これいいなと思ってね。どんどん変わっていくだろうけど。孫にあれしておこうと思ってね。

昔はこんなでしたからね。佃島だけでしたかね。

 

ー佃島のお祭りは江戸時代からのとてもいいお祭り

佃島のお祭りも、ほかの地区から比べると範囲はそんな広くはないけど、江戸時代からのとってもいいお祭りですよね。だから、私、最初から終わりまで一度見てみたいなと思ってね。明け方から始まるね。だけどビデオ買ったのでそれを持ってますけどね、一度見たけどすごい神聖な感じでおごそかで、始まりからすごいわね。感激しちゃった。

 

ー佃の盆踊り、素朴でゆったりとした時代の流れを感じる

それから佃の盆踊りもなんとも素朴な盆踊り。昔の漁師の方たちが仏様、死んだ方たちを供養するための踊りだから、静かで素朴で。その盆踊りが好きで愛好家の方たちが来るんですよ。私も一度見に行ったことがあるんだけど、とてもよかった。なんか涙出そうだった。素朴なね、派手じゃなくて、ほんとにゆったりした、時代の流れというか。

盆踊り、一度宮本さんも見た方がいいと思うわ。

 

ーこれが本来の盆踊りなのでは

なんとも言えないあの音楽と踊りが素朴。これが本来の盆踊りっていうんだなって思ってね。私たちは東京音頭とかああいう派手なね、あれするけど、本来はこれが盆踊りなんだなと思ってね。

動きもゆっくりだし、歌もね。一人、年配のおじいさんがいるんだけど、そのおじいさんが歌うたって、で、ちょっとささやかに太鼓が鳴るくらい、それに合わせてみんなが静かにただ踊るだけ。すごく感激しましたよ。

ほら昭和37年って書いてある。だからちょうど私がお嫁に来る3年前の状態でしょ。だから私が来た頃はまだまだこれ残っていたんですよ、この風情がね。全部ね。

 

Q:生き証人ですね

私なんか、まだまだ。主人の方がもっと。

(ご主人は)ほとんどここで育ってるからね。学校行くのに船に乗ったって言ってましたよ。

 

Q:月島の、いいところだな、すごいなと思ったところをもう一度おっしゃってください。

 

ーご近所に支えられたり、支えたりの人との繋がり

やっぱり人とのふれあいっていうか繋がりっていうか、そういうものがあったわけ。だからそういうことかな。ご近所に支えられたり支えたりっていうかね。それで繋がっていたっていうかね。だったかな。

ー映画『三丁目の夕日』のような、気持ちは豊かでのんびりしていた

ちょうど高度成長期前の一番、映画(『三丁目の夕日』)のあれじゃないけど、あんな感じよね。すごく豊かではないんだけど、気持ちはもっと豊かっていうか、のんびりしてたっていうかね。まあその感じの。

ー昭和40年代、一番最後のいいときに私はお嫁にきて、いろんな体験や学びができた

その後くらいからもうだんだん変わってきたから、ちょうどいいものが残っていた最後くらいでしょうね。昭和40年ちょっとくらいまではね。ちょうどその一番最後の頃のいいときに私はお嫁に来て、いろんなことを経験したし、教えられたしね。とてもよかったと思います。今思うとね。

 

Q:ここにはいろんな行事があって、住人と商店街の人達とが力を合わせて作っていったんでしょう?

ーその季節、行事がくるのが楽しみ

その季節がくると楽しみなのよね。またお盆がきたとか、草市がきたとかね、今度はお祭りだとか、何々があるとかね、町の人達も大変な反面楽しみ、楽しんでいたというか、そういうことがあればそれに携わってみんなが協力するとか、ちょっとお店があってもちょっと無理しながらも手伝うとかね。

そういうもんだと思ってたからね。それが当たり前だと思ってたから。

 

Q:ご主人はそういうときには出て行かれて、奥さんがおうちを守ってるんですか。

あれにもよるでしょうね。私が出れば主人がいて、主人が出れば私がいて。でも、うちの仕事柄、うちの主人がほとんど店にいなきゃいけないので、やっぱり私が出ることが多かったですよね。お祭りとか、男性的なものはあまり私は出られなかったけどね。

 

昨年の西仲商店街の草市(お盆用品を購入)の様子
子供達がとても楽しみにしている夏の行事

池本さんへのインタビュー 4/5       (インタビュアー宮本)
(2018.6.14)


隅田川沿いの倉庫街と酒屋さん

Q:高度経済成長期に入って、隅田川も汚れて臭いがしたり濁ったりで、でも生活は豊かになってきて・・・。その後川もだんだんきれいになってきて、川の風景も変わりましたか。

 

ー隅田川沿いは大手の倉庫が並んでいたが、移転して景色が一変

その川っぷちから全部、大手の倉庫だったの。いろんな大手のね。みんな川から運搬してたけど、その会社が全部、移転しちゃって、ここが全部空き地に、空いたんですよ。そこに全部、今、マンションが建っちゃった。だから全然風景が変わっちゃった。


ーうちの前の突き当たりにはマルハの倉庫、真夏でもマイナス下で働く人たちがうちにお酒を飲みに来る

うちなんか、前、このつきあたりがマルハの大きい冷凍倉庫だったの。ここを何トン車っていう車がダーと走るんですよ。すると家が揺れるの。そこで働いている方たちがマイナス何度というところでお仕事してるから、真夏でもこんな厚いお洋服着てうちへお酒を飲みに来るの。体が冷えるから。真夏でもね。そういう方たちが一杯飲んじゃ、また倉庫に帰って行って、マイナス何度だろうね、お魚も。そういうところでお仕事するから。

 

ーここは酒屋さんが多かった

築地も近いし、そういう方が多かったから、酒屋さんがね、すごく多かった。やっていけたの。飲む方が多かったから。で、築地関係で働いている方も、ここ多いでしょ。その頃の方達ってみんな飲むんですよね。

だからお祭りのときすごかった。もう今でこそ、ちょっと飲むだけ買うけど、あの当時は箱買いですもんね。

 

Q:それは日本酒も?

特にビールが多いかな。そうね、ビールが多いわね、一番ね。

 

Q:隅田川沿いは倉庫街だったんですね。じゃ、風景が一変しちゃいましたね。

私、軍艦があるかと思うくらい、わーっと大きい建物が黒い感じであってね。ちょっとドキッとする感じだったわね。だけど、今でこそ、きれいでしょ。外国みたいにマンションが建っちゃってね。それ、全部倉庫が移転しちゃったのね。

 

Q:築地が近くて魚河岸が近くて、倉庫があって、ほんとに魚の街っていうところだったんですね。
もんじゃ屋さんになって20年ぐらい経ちますか。

そうですね、20年近くなるかな。平成16年、そう14年になるか。それ以前、ちょっと5,6年前からもんじゃ屋さんが増え始めたからね。こんなにもんじゃ屋さん増えるとは思わなかったけど、みなさん頑張ってそれなりにやってらっしゃるから。

 

Q:地下鉄が開通して足の便が良くなりましたから大勢の方が外から来るようになりましたからね。

鉄道っていうのはすごいですよね。新宿から一本で来られるとか、本当に遠かった池袋のほうからばあっと来られるとかね。

 

ー月島はてっきり島だと思って赴任してきた学校の先生

昔はちょっと島みたいな感じよね、一つのね。だから、笑い話があって、昔、どこかの小学校の先生が赴任して来たんですって。月島っていうことで来たんだけど、てっきり島だと思ったらしいの。海かなんかのね。「どっからお船に乗っていけばいいんですか?」って聞いたっていう笑い話があるんですけどね。

前は同じ中央区だって言ったって、隅田川を渡ってこっちへ来ると、みんなあまり知らないわけよね、この場所はね。東京でも端のほうでしょ。だから知らない方がいっぱい多かったんでしょうね。

 

Q:私もどこの島だと、最初思いました。船で大島とか、遠くから通勤に来ているのかなくらいに思っていたんですけど、こんな都心だったとは

そう。で、聞いたら結構歴史が面白いんですよね。佃島から月島につながってね。昔は佃島だけだったのが、埋め立てて月島ができたでしょ。だから昔の版画なんか見ると、佃島のあれがあるけどね。

 

 

Q:うちの夫は勝どきは海水浴場だったとか、晴海は野っぱらで虫をとったとかいう話をしていましたが。

 

ーご主人の子供時代には、隅田川はきれいで遊んだり、白魚をとったり

主人が小さい時は、隅田川はきれいで、白魚がとれたって言った。で、みんなで川で泳いだりして遊んだって言ってた。その後泥の川になっちゃったでしょ。だからあそこの、お台場のほうなんか、昔はごみの集積でもってすごかったのが、埋め立てて今、すごくなっちゃったけど。

ー息子さんも晴海で遊んだ

あの頃は息子なんかでも、あの辺の晴海のほうで遊んでたって言ってますよね。友達とね。行っちゃいけないところ行って怒られたなんて私には内緒で言ってましたけどね。

 

現在の隅田川と勝鬨橋
左側が月島・勝どき、右側が築地

池本さんへのインタビュー 3/5     (インタビュアー宮本)
(2018.6.14)


西仲商店街で買い物はすべて賄えた

Q:今はいろいろ環境が変わりましたね。

地下鉄が出来たことでだいぶ月島が変わってきたんじゃない?有楽町線ができて、「あ、変わった」と思って、その次、大江戸線ができて変わったと思って。だから交通があれしたことによって、なんとなく町が変わってきたというか。

 

Q:町が変わってきたし、そうやって一つのことをみんなで取り組むということが高齢化もあって変わってきたんでしょうか。

世代が変わって若い方になってくると、だんだんおうちを継ぐという方も少なくなってきたり、若い方は外に出たりする。すると今度は、ご近所とのお付き合いは今までみたくやろうという人が少なくなってきちゃうのね。だからそういうことかな。

後を継ぐ人が少なくなってきたから、周りの環境とかいろんなことが変化してきたことで、なんとなく少しずつ少しずつ変わってきちゃったっていうかね。誰か、これがこうでというのじゃなくてね。だんだんにね。

 

Q:お嫁に来られたころは西仲商店街にはいろんなお店がありましたか。商店街で全部買い物が済んだという話も聞きましたが。

全部済みました。ここの中にいれば、全部、商店街で済みましたでしょ。お風呂屋さんもあればすべて、ここの町、商店街だけで全部済んだから、外へ行く必要がなかったですもんね。また、ここに来て買うということが楽しみだったというかね。

 

Q:もともと物価が安くてみんなが買いに来ていたということも言われていますね。

ー築地が近いので、魚屋は安くて豊富な品揃え

築地が近いからそういう点ではお魚屋さんなんかでも、豊富でおいしくて安いものは売ってたから、そういうこともありますよね。

Q:知っている限りでは、魚屋さんは3軒くらいありましたけど。

そう、一之部、二之部、あと裏にもあったし。もっとあった。商店街では三軒くらいかな。

 

Q:今は少なくなりましたね。

少なくなった。あの頃、夕飯の買い物、「今日何しようか?」って準備するっていうか、考えることが楽しかったからね。忙しいながらも結構料理つくりましたもんね。

 

Q:おすそ分けとか貸し借りとかは?

たぶん私が来る以前のほうがそういうあれが多かったかもしれないけど、私が来た昭和40年代はちょっとそういうのが少なくなってきた。「ちょっと貸して」とかいうのはね。ちょっと豊かになったんじゃないかと思うの。

それ以前だったら、ないことが多いから、隣のおばさんで「あれ貸して」とかっていうお話、聞きますよね。だけど、昭和40年過ぎたころには、全体がちょっと豊かになってきているから、「貸して」って言うことは、ものにもよるとは思うけれど、少なくなってきたとは思うわね。

 

現在の西仲商店街の参番街
池本さんの「もんじゃえびすや」
夕方賑わいの風景

池本さんへのインタビュー   2/5    (インタビュアー宮本)
(2018.6.14)


池本久子さんのお話

Q:ご出身はどちらですか。

豊島区千早町。あの近くは文豪とか芸術家が多かった。すごくいいとこでしたよ。

 

Q:お嫁に来られたのはいつ頃でしたか。

ー隅田川が一番汚染されていた頃

昭和40年、二十歳の時。ちょうどあの頃、隅田川が一番汚い時で、ガスが発生して、「うわー」と思って、橋を渡った記憶がある。勝鬨橋をね。

 

Q:お嫁に来られて、月島と豊島区との違いはどんなところでしたか。

ほんとに閑静な住宅と畑がちょっと豊島区にはあって、ここは商家というか、の方たちが多いとこで、全然環境が違う。だからすごく好奇心はありましたね。

 

交番が前にあって、おまわりさん普段見るってことがないわけ。おまわりさんみただけで、なんか・・・。

 

 

Q:『沿革図集』の月島編を今見ていらしておっしゃっていた商店街の賑やかさ、団結力があったこと、そういうところを聞かせてください。

一番分かるのは、例えば、ここは一角一角切れてますでしょ?そうすると、ご近所で亡くなったりすると、お葬式の時なんか、みんなが集まってお葬式の準備するんですよ。お料理作ったり、手分けして、みんなが協力しあってお葬式のお手伝いする。それは驚いた。

そうやって先輩からいろんなことを教わるわけね。これからどうするとか、世間のこういうこと、上下関係とか周りのお付き合いということをそういうときに学ぶわけ。

「あー、そうなんだ」と思って、私は経験のないあれだったんで、今思うと「すごかったな、あの頃は」と思う。

 

Q:葬式は佃説教所で行われていましたか。

そう、みんなあの裏でお料理作ったり、一人先頭に立つ先輩がいるから、その方の指示に従ってみんな動くわけ。

だから、「こういうもんなんだな」と思って、「こういうのが下町なんだな」と思って。

以前にはない経験でしたね。

 

Q:いろんなことが団結心というか、お互いさま、助け合いだったわけですね。

地元の子供達は楽しんでね。草市も豆まきも。今年はお祭りでしょ。そういうのもすごく楽しみでしたよ。

 

Q:池本さんのところは、お嫁に来られた時から酒屋さんをされておられたのですか

酒屋です。

 

一番いい時にお嫁に来たわね。ちょうど「三丁目の夕日」じゃないけど、あれにかかった時代だったからよかったのよね。

以前うちは酒屋さんだった(現在はもんじゃえびすや)から、私もお嫁にきて配達したりなんかしてたでしょ。その頃のお客さんはみんないい方でね。私が配達にいくと、「お姉さん、おなかすいただろ、今、てんぷらあげたから食べてきな」とかさ、「おいしいお菓子入ったから食べてきな」なんて言ってくれるんですよ。

 

Q:いつもお店でお話しするのが楽しみでした。息子も可愛がっていただきましたし。

お客様もあの頃はのんびりというか、気持ちに余裕があったからね。来るお客さんも、良い方が多かったですよ。私は若かったから何も知らなかったけど、周りの方たちがすごくよくしてくれたし、良い方が多かったから、そこでいろんなことを見たり聞いたりしたから。いい時代だったなと思いますよ、あの頃は。

時代が変わっちゃうと皆さん、そういうお付き合いが薄くなってきちゃう。あの頃が一番よかったね。

 

Q:お向かいの交番の隣には映画館があったでしょう。

ー映画館は集会所、風呂屋には芝居の役者さんも

何か集会があると映画館を借りて集まってお話聞いたりして。よくすぐそばのお風呂屋さんにお芝居の役者さんがお化粧したままお風呂屋さんに行くのも見たしね、そういうのも私驚いちゃって、「別の世界に来たんじゃないか」と思う。

割とすぐ、その後お芝居小屋もなくなったし、映画館もなくなったし。驚きでしたね、あの頃はね、私にとってはね。

 

Q:どうしてすぐになくなったんでしょうか。

だんだん人口も減ってきてたし、ほかに娯楽ができてきたでしょ、いろいろ。だから前みたいに、娯楽が少ない時はそういう地元のあれをあれしてたんでしょうけど、だんだん世の中は、いろんな娯楽が出来てきてたから、そっちへ皆さん行くようになったから、だんだんすたれたんでしょうね。

 

Q:寂しいですね。

そう、時代の流れでしょうがないわね。

 

 

Q:地域の皆さんといろんなことを力を合わせてやってこられて、それが月島ならではということもおっしゃっていましたね。

 

ー行事はみんなで助け合い

ひとつ行事があると、みんなで助け合って協力し合ってやるというところがありましたよね。

ー当時、おじいさんは町会長さん

うちはおじいさんなんか、町会長やってたから、ご近所の人達がきて、「町会長、今度どうすんだ?」「ああすんだ」ということを話し合って、それにみんなついていって、協力してやっていくんですよね。だからあの頃は一番元気だったかなとか、絆があったかなとか思いますよね。

ーお嫁に来て、草市に感激、みんなの団結力

草市なんかとてもすごかったからね。わーっとお店が出てね。路地・路地もぜんぶ出て、植木がいっぱい出て。私が来たての時が最高だったんじゃない? 今言ったみたいに主人のお父さんが町会長やってた時だから、すごくいいときだった。みんなが協力し合って、すごいな、この団結力で。私は豊島区の住宅地の中に静かにいたから、ここに来たときに環境が全然ちがうわけ。

 

池本酒店(現もんじゃえびすや)の向かい側の元交番(現交通安全センター)
この隣には、映画館や芝居小屋、寄席などがあった

 

池本さんへのインタビュー  1/5    (インタビュアー宮本)
(2018.6.14)

 


三間道路で紙芝居、晴海はバッタとり、豊海は海水浴

Q:月島の長屋とか路地とか三間道路の思い出は何かほかにも印象に残っていることはありますか。

やはり物売りですか、風鈴屋さんだとかいろいろものを売りに来たんですよね。おもちゃを売りに来たりもしてたんですけども。

ー紙芝居屋の思い出

紙芝居屋さんが来まして、子供達が大勢集まって、紙芝居を見ましたね。あのときは「黄金バット」とかをやってたというような記憶があるんですけども。

その紙芝居屋さんが紙芝居をやるだけじゃなくて、お菓子を売ってくれるわけですね。それを売ってお金をもらって、それで紙芝居をしてくれるということなんですけども、フワフワせんべいというこれくらいのせんべいがありまして、そのフワフワせんべいにソースを塗って、それを買って食べながら紙芝居を見たと、そういう子供の頃の記憶があります。

 

Q:今晴海はマンションが建ち並んでいますが、子供時代には、まだ埋め立てられたばかりの野っ原だったんですか。

ー夏はバッタとり、秋は赤トンボ

そうです。晴海がちょうど埋め立てた後くらいで野っ原だったんですね。秋になると赤とんぼがすごい群れをなしていまして、夏になるとバッタがいっぱいいまして、そのバッタとりに晴海まで行くというようなこともしてました。

 

Q:豊海は海水浴場だったそうですね。

そうです。それよりもっと小さいころの思い出なんですけども、豊海に海水浴場があって、そこで海水浴をしたような記憶があります。

豊海というと勝どきの向こう側で、今は倉庫街になっちゃってますけども、どんな形の海水浴場だったかというのはあまり記憶がないんですけど、そこで海水浴をしました。

砂浜とかそういうものはないんですけど、とにかく海の中に海パン履いて入って、少しは泳げたのかな、そのときは水につかるだけだと思いますけども、ずっと太平洋というか海がありましたのでそこで海水浴ができたというような記憶はありました。

現在の三間道路

子供達の「お絵かきみち」(長屋学校)

宮本英一氏へのインタビュー  6/6(インタビュアー宮本)
(2018.6.10)


佃の渡し、勝鬨橋、都電の思い出

Q:佃の渡しの思い出は何かありますか。

ー鉄砲洲公園はとにかく楽しい遊び場だった

昭和39年は、佃大橋の開通で佃の渡しがなくなった年なんです。その前までは佃の渡しでちょうど向こう岸まで渡しを使ってよく遊びに行ったんですね。だいたいうちのおじいさんと一緒に。おじいさんは自転車で、佃の渡しに自転車を載せてね。で、一緒にくっついて行ったということがよくあったんですけどね。

第一公園だとか、渡し公園だとか、月島のほうにはあったんですけど、向こう岸には鉄砲洲公園というのがありまして、そこに遊びに行きたいがために佃の渡しを使って向こう岸まで行って、で、歩いて公園に行って、公園で遊んで帰ってくると、そういうようなことをやってました。

鉄砲洲公園の遊び場がすごく先進的だったんですね。とにかくすごく楽しい遊び場だったんですよ。

 

あと、佃の渡しの思い出としては、昭和39年に佃大橋が開通したときですね、佃大橋の開通式で、月島第一小学校だったんですけでも、鼓笛隊でパレードをしたという思い出があります。

それまでは佃の渡しが月島と明石町を結んでおりまして、よく佃の渡しも使ったんですけど、何のために使ったかというと、向こう岸に鉄砲洲公園というのがありまして、その当時はその鉄砲洲公園の遊び場がすごく先進的だったんですね。非常に大きな滑り台っていうんですかね、そういうのがおいてありまして、渡し公園とか第一公園にはない遊具がおいてあるんですね。

おじいさんが自転車で連れて行ってくれたと思うんですけども、自転車もその佃の渡しには載せられて、で、一緒に明石町まで行って、そこから自転車、もしくは歩いて鉄砲洲公園まで行って、で遊んで戻ってくると、そういうような子供時代の遊びがありました。

 

Q:勝鬨橋の思い出は何かありますか。

ー勝鬨橋は跳ね橋、開く姿がカッコよかった

勝鬨橋はご存じのとおり、跳ね橋で、真ん中が開くんですけど、その開く姿がすごいかっこいいんですよね。

小学校の頃、夏休みで学校がない時には勝鬨橋が開くのを見に行くというのが日課でした。渡し公園でラジオ体操をして、で、ご飯食べてかな。それで勝鬨橋の開くのを見に行ってという感じですかね。そういうことをしてました。

 

Q:都電の思い出は何かありますか。

ー渋谷の五島プラネタリウムが好きで都電に乗る

昔は地下鉄とかそういうのはなくて、基本的には都電が走っていたんです。門前仲町に行くにも都電を使うというのが普通で、僕はとにかく都電というと、お袋と一緒に都電に乗って渋谷まで行った記憶があるんですよね。

ほとんど小学生の頃の思い出だけなんですけども、昔は都電が月島に通っておりまして、バスも地下鉄もない時代ですから都電が唯一の交通機関だった頃がありまして、私もよく都電には乗りました。

月島三丁目に停留所がありまして、その三丁目から門前仲町とかよく行くわけなんですけども、私の場合は、おふくろと一緒に渋谷の五島プラネタリウムに行きまして、プラネタリウムが子供の頃は大好きでしたので、母親にねだって何度も何度もプラネタリウムには行きました。

その時は必ず都電を使ったんですが、床屋のおじさんに聞くと、「月島から直接渋谷に行けた都電はなかったんじゃないの? 途中で乗り換えたはずだよ」と言われるんですけど、小さいころの記憶なんですけど、三丁目の都電の停留所から直通の都電が渋谷まで出ていた、そういう記憶があります。

 

冬の夜空とか、秋、夏、春、そういう夜空を見に行く、月島では星とか、鮮明に見えませんので、子供の頃はプラネタリウムで星空を見るということが本当に大好きでした。

 

都電に乗っていろんなところに行ったというそういう記憶があるんですけど、勝鬨橋はご存じのとおり跳ね橋で真ん中が開いて、高い船、背の高い船が通行できる、そういうような橋だったんですけども、子供の頃、特に学校が休みの夏休みとか、勝鬨橋が上がるのをよく見に行ったという記憶があります。

勝鬨橋が上がるとその瞬間がすごくかっこいいんですよね。で、そういうのを、一人で行ったのか、うちの姉と一緒に行ったのか、見に行ったという記憶がすごくありまして。

渡し公園でラジオ体操をやるんですけど、そのあと家に帰ってご飯食べて、で、勝鬨橋まで行って橋が上がるのを見た、そんな思い出があります

 

ー勝鬨橋が上がると、都電もストップ

都電に乗って、朝なんですけど、一日に何回か勝鬨橋が上がったんで、上がるというと都電がストップするんですね。で、また閉まるまで待ってなきゃいけないと、そういうようなことだったんじゃないかなと思うんですよね。

 

ー次第に勝鬨橋の開閉数は減り、都電も廃止に

だんだんと勝鬨橋は上がらなくなったんですよね。朝一回だけ上がるようにだんだんとなっていったんじゃないですかね。昔は一日に何回も開いていたような記憶もあります。その時にはとにかく交通がストップするというようなことで、都電が結局廃止になって、月島はほとんどバス、都バス中心の交通機関になって、そのあとは有楽町線は通るし、大江戸線は通るしということですごく便利になったんですけどね、私が小さいころは都電が足になってましたね。

 

勝鬨橋にて
宮本多美子夫妻

宮本英一氏へのインタビュー  5/6 (インタビュアー宮本)
(2018.6.10)


裏路地は釜と洗濯と社交場

Q:テレビが出始め他頃は画期的でしたね。やはりご近所でみんなが集まって見ていたんですか。

出始めの頃はそうですね。

特にテレビが出始めた、テレビが売り出されたのはいつごろなんですかね、28年に放送開始ですよね。

だから私が生まれた年なんですけど、そのあと白黒テレビが売りに出されたという事なんでしょうけど。

うちのご近所の、うちの長屋の端のほうに住んでいた、二階に住んでいた人で横内さんという方がいるんですけど、その方がテレビを買ったんですよね。ご近所では初めて買ったんですかね。で、テレビを見にご近所の人で集まって行ったりしたことがあります。

うちでも白黒テレビを買えるようになって、それからは人の家に行ってテレビを見るということはなくなったんですけど、家でテレビは見るようになりましたけど。ご近所の人の家に行ってそういうふうにテレビを見せてもらったり遊んだりというのが昔はありましたね。

 

Q:路地には表路地と裏路地があると聞いていますが。

そうですね。この長屋というのは表路地というのと裏路地というのがあるんですけど。

 

ー裏路地はご飯を炊くところで、女の井戸端会議の場所

うちの裏路地のほうではご飯を炊く釜がありまして、昔はちゃんと木をくべてご飯を炊いていたんですね。たぶん私は記憶にないんですけど、かなり長屋と長屋の間が広かったんで、そこに五右衛門風呂みたいなものを置いて、そこで風呂に入ってたりもしてたんじゃないかと思うんですけどね。

 

裏路地はそういうような、いわゆる台所とご飯を炊くようなところが向かい合っているわけで、それで、ご近所の奥さんなんかとうちのおばあさんやおふくろが、食事とかを作りながらいろいろしゃべったりとか、そういうようなつきあいがあったんですよね。

 

 

ー裏路地は洗濯場でもあった

裏路地は、ちょうど排水のところがあったりして、そこで洗濯したり、昔は洗濯機とかないですからたらいを置いて、そこで手で洗濯をするというようなことをみんなやってたわけでね。それはすべて裏路地でやっていたということですね。

 

ー表路地には鉢植えが、春には山本さんの沈丁花の香り

表路地の方は、私の小さいころは植木ものというのはあまりおいてなかったんですよ。かなり路地自体が広く感じられたんですよね。で、その後、皆さん植木が好きですから、どんどんそういう植木ものを置いちゃって、路地自体がどんどん狭くなっていっちゃったんですけどね。

だけど、そういう植木ものがあるというのはすごくやっぱり心が和むというのがありまして、とくに山本さんの家には沈丁花の苗がありまして、春先になるとその沈丁花の香りがすばらしいんですよね。そういうような記憶があります。

山本さんの沈丁花を一株いただいて、今、家のほうに沈丁花が植わってますけど、やっぱり沈丁花の香りを嗅ぐと昔の、山本さんがおられた、そういうのを思い出されるような感じがします。

 

山本さんからいただいた沈丁花

 

Q:社会人になってからはどうですか。

ーその後は仕事一筋になってしまった

私が高校を卒業して働くようになってからは、もう仕事一筋になっちゃって、地域の方々とはほとんど交流がなくなってきてましたね。本当に忙しい仕事に随分回されましたので、家に帰ったら食事をして寝るだけみたいなそんな生活でした。それがいまだに続いているというような状況です。

ですので、隣近所の方々との交流というのは今ではもうほとんどないというような状況なんですけど、昔の子供時代の思い出で今生きているような、そんな感じがします。

現在はもうほとんど何もないですね。

 

宮本英一氏へのインタビュー  4/6    (インタビュアー宮本)
(2018.6.10)