三間道路で紙芝居、晴海はバッタとり、豊海は海水浴

Q:月島の長屋とか路地とか三間道路の思い出は何かほかにも印象に残っていることはありますか。

やはり物売りですか、風鈴屋さんだとかいろいろものを売りに来たんですよね。おもちゃを売りに来たりもしてたんですけども。

ー紙芝居屋の思い出

紙芝居屋さんが来まして、子供達が大勢集まって、紙芝居を見ましたね。あのときは「黄金バット」とかをやってたというような記憶があるんですけども。

その紙芝居屋さんが紙芝居をやるだけじゃなくて、お菓子を売ってくれるわけですね。それを売ってお金をもらって、それで紙芝居をしてくれるということなんですけども、フワフワせんべいというこれくらいのせんべいがありまして、そのフワフワせんべいにソースを塗って、それを買って食べながら紙芝居を見たと、そういう子供の頃の記憶があります。

 

Q:今晴海はマンションが建ち並んでいますが、子供時代には、まだ埋め立てられたばかりの野っ原だったんですか。

ー夏はバッタとり、秋は赤トンボ

そうです。晴海がちょうど埋め立てた後くらいで野っ原だったんですね。秋になると赤とんぼがすごい群れをなしていまして、夏になるとバッタがいっぱいいまして、そのバッタとりに晴海まで行くというようなこともしてました。

 

Q:豊海は海水浴場だったそうですね。

そうです。それよりもっと小さいころの思い出なんですけども、豊海に海水浴場があって、そこで海水浴をしたような記憶があります。

豊海というと勝どきの向こう側で、今は倉庫街になっちゃってますけども、どんな形の海水浴場だったかというのはあまり記憶がないんですけど、そこで海水浴をしました。

砂浜とかそういうものはないんですけど、とにかく海の中に海パン履いて入って、少しは泳げたのかな、そのときは水につかるだけだと思いますけども、ずっと太平洋というか海がありましたのでそこで海水浴ができたというような記憶はありました。

現在の三間道路

子供達の「お絵かきみち」(長屋学校)

宮本英一氏へのインタビュー  6/6(インタビュアー宮本)
(2018.6.10)


佃の渡し、勝鬨橋、都電の思い出

Q:佃の渡しの思い出は何かありますか。

ー鉄砲洲公園はとにかく楽しい遊び場だった

昭和39年は、佃大橋の開通で佃の渡しがなくなった年なんです。その前までは佃の渡しでちょうど向こう岸まで渡しを使ってよく遊びに行ったんですね。だいたいうちのおじいさんと一緒に。おじいさんは自転車で、佃の渡しに自転車を載せてね。で、一緒にくっついて行ったということがよくあったんですけどね。

第一公園だとか、渡し公園だとか、月島のほうにはあったんですけど、向こう岸には鉄砲洲公園というのがありまして、そこに遊びに行きたいがために佃の渡しを使って向こう岸まで行って、で、歩いて公園に行って、公園で遊んで帰ってくると、そういうようなことをやってました。

鉄砲洲公園の遊び場がすごく先進的だったんですね。とにかくすごく楽しい遊び場だったんですよ。

 

あと、佃の渡しの思い出としては、昭和39年に佃大橋が開通したときですね、佃大橋の開通式で、月島第一小学校だったんですけでも、鼓笛隊でパレードをしたという思い出があります。

それまでは佃の渡しが月島と明石町を結んでおりまして、よく佃の渡しも使ったんですけど、何のために使ったかというと、向こう岸に鉄砲洲公園というのがありまして、その当時はその鉄砲洲公園の遊び場がすごく先進的だったんですね。非常に大きな滑り台っていうんですかね、そういうのがおいてありまして、渡し公園とか第一公園にはない遊具がおいてあるんですね。

おじいさんが自転車で連れて行ってくれたと思うんですけども、自転車もその佃の渡しには載せられて、で、一緒に明石町まで行って、そこから自転車、もしくは歩いて鉄砲洲公園まで行って、で遊んで戻ってくると、そういうような子供時代の遊びがありました。

 

Q:勝鬨橋の思い出は何かありますか。

ー勝鬨橋は跳ね橋、開く姿がカッコよかった

勝鬨橋はご存じのとおり、跳ね橋で、真ん中が開くんですけど、その開く姿がすごいかっこいいんですよね。

小学校の頃、夏休みで学校がない時には勝鬨橋が開くのを見に行くというのが日課でした。渡し公園でラジオ体操をして、で、ご飯食べてかな。それで勝鬨橋の開くのを見に行ってという感じですかね。そういうことをしてました。

 

Q:都電の思い出は何かありますか。

ー渋谷の五島プラネタリウムが好きで都電に乗る

昔は地下鉄とかそういうのはなくて、基本的には都電が走っていたんです。門前仲町に行くにも都電を使うというのが普通で、僕はとにかく都電というと、お袋と一緒に都電に乗って渋谷まで行った記憶があるんですよね。

ほとんど小学生の頃の思い出だけなんですけども、昔は都電が月島に通っておりまして、バスも地下鉄もない時代ですから都電が唯一の交通機関だった頃がありまして、私もよく都電には乗りました。

月島三丁目に停留所がありまして、その三丁目から門前仲町とかよく行くわけなんですけども、私の場合は、おふくろと一緒に渋谷の五島プラネタリウムに行きまして、プラネタリウムが子供の頃は大好きでしたので、母親にねだって何度も何度もプラネタリウムには行きました。

その時は必ず都電を使ったんですが、床屋のおじさんに聞くと、「月島から直接渋谷に行けた都電はなかったんじゃないの? 途中で乗り換えたはずだよ」と言われるんですけど、小さいころの記憶なんですけど、三丁目の都電の停留所から直通の都電が渋谷まで出ていた、そういう記憶があります。

 

冬の夜空とか、秋、夏、春、そういう夜空を見に行く、月島では星とか、鮮明に見えませんので、子供の頃はプラネタリウムで星空を見るということが本当に大好きでした。

 

都電に乗っていろんなところに行ったというそういう記憶があるんですけど、勝鬨橋はご存じのとおり跳ね橋で真ん中が開いて、高い船、背の高い船が通行できる、そういうような橋だったんですけども、子供の頃、特に学校が休みの夏休みとか、勝鬨橋が上がるのをよく見に行ったという記憶があります。

勝鬨橋が上がるとその瞬間がすごくかっこいいんですよね。で、そういうのを、一人で行ったのか、うちの姉と一緒に行ったのか、見に行ったという記憶がすごくありまして。

渡し公園でラジオ体操をやるんですけど、そのあと家に帰ってご飯食べて、で、勝鬨橋まで行って橋が上がるのを見た、そんな思い出があります

 

ー勝鬨橋が上がると、都電もストップ

都電に乗って、朝なんですけど、一日に何回か勝鬨橋が上がったんで、上がるというと都電がストップするんですね。で、また閉まるまで待ってなきゃいけないと、そういうようなことだったんじゃないかなと思うんですよね。

 

ー次第に勝鬨橋の開閉数は減り、都電も廃止に

だんだんと勝鬨橋は上がらなくなったんですよね。朝一回だけ上がるようにだんだんとなっていったんじゃないですかね。昔は一日に何回も開いていたような記憶もあります。その時にはとにかく交通がストップするというようなことで、都電が結局廃止になって、月島はほとんどバス、都バス中心の交通機関になって、そのあとは有楽町線は通るし、大江戸線は通るしということですごく便利になったんですけどね、私が小さいころは都電が足になってましたね。

 

勝鬨橋にて
宮本多美子夫妻

宮本英一氏へのインタビュー  5/6 (インタビュアー宮本)
(2018.6.10)