多美ちゃんとの思い出

Q:宮本のお母さんと親しくしていただいたと思うんですけど、ここには松原さん入ってらっしゃいますか。

(写真1を見ながら)いないと思う、ここには。でもこれはちょっと似ているような感じもする。この子、おかっぱだから。

 

写真1

 

多美ちゃんとは、あの人も結構本を持ってたんですよ。うち貧乏だから本買ってくれなかった。だからしょっちゅう「おばさん、多美ちゃんいる?」なんて言って、「上にいるよ」って言うから、「じゃ、上がってっていいかな?」「うん、いいよ」。

で、上がっていって、で、多美ちゃんに「本見せてほしいんだけど」「そこにあるから好きなの読んでていいよ」って言って。それでいつも引っ張り出して、「じゃ、これちょっと見せてね」って。だから結構やってくれました、いろいろと。

 

ー多美ちゃんは手先が器用

あの人、手先が器用だったから。編み物とか、そういうの好きでね。おばさんも器用だったんでしょうね。でも、おばさんの作り方は割合雑なのよ。悪いけど。たしかにやってくれてたの。けど、多美ちゃんのやり方と全然違うのね。多美ちゃんはきれいにやってくださる。

 

私なんか、「多美ちゃん、多美ちゃん」って、自分の姉よりよかったの。で、多美ちゃんのところに行けばさ、本は読めるしさ。だから、お嫁に行くまでは結構親しくさせてもらったんですよね。

 

Q:たしかに。おばあさんは最期、床についても孫のものを編んだりしてましたね。

そうでしょ。

(写真2を見ながら)これ、タエちゃんみたいね。このへんに、すぐそこにタエちゃんというのがいて、それからこの隣にヨウちゃんという人がいたの。それから、ヨウちゃんとマーちゃんとね。

写真2

 

Q:こちらも学生たちが帽子をかぶって・・・

 

(写真3を見ながら)あ、これね、戦争中。みんな防空頭巾かぶってるでしょ。これは母親たち。滋野さんとか、いたはずなのよ。こうなるとちょっとよく分からないけど、うちの母親もここにいるの。

写真3

 

Q:今と違ってとても危険な時期だったと思いますけど、みんながこうやって団結して。

 

すごい、何年頃かしら、私がまだ、学生の頃だったと思うのね。屋根のところに火がおっこってきたりとか、したんですよ。それをへんなパタパタやるので消したりね。ちょっとそのときはいやでしたけどね。

 

空襲ですね。あれがもっとひどいと、あそこみたいになっちゃうの。門前仲町の、あのへん一体、みんなやられたんですよね。こちらはまだいいほうなんですよ、焼けなかったから。焼けなかったからまだこういうのが残っていると思う。

 

防空演習って言ってね。皆さんこういう格好して、私たちはただ「おばちゃんたちやってる」っていうくらいにしか見ないけど、やったんですよ、みんな。だからいろんなのかぶってるでしょ。でもよくこういうのありましたね。

これがたしか、タエちゃんっていう人だと思うんだよね。私よりだいぶ上の人だけど。

 

Q:皆さん、着物でおさげだったんですね。

(写真2を見ながら)なんかちょっと撮ってくれたんじゃないかな。年寄りっていうか。このころはあんまり撮ることないと思いますよ。

写真2

 

もうこういう時代は全然わからないです。
今はいいわね、いい時代に生まれてね。

 

Q:これはまた学生のときのものなのか、それとも働いているときのものなのか、学生のような感じですよね。

 

そうですね。(写真1を見ながら)これなんかうちの兄みたいな感じ。そうですよね。まだ若いころでしょうね、これ。

写真1

 

Q:集合写真が残っているからいいですね。

 

そうですね、今みたいに「うちはうち、おたくはおたく」みたいな感じになっていると、なんかわびしいですよね。

 

Q:みんなで集合写真を撮っているというのは、戦争ということがあって、すごく団結しているのがあったと思うんですけど。

 

でもね、変な話、宮本さんちは人数少ないのよね。ところが宮本さんの弟さんのうちかな、すぐそこにあったの。そこのうちが子人数いっぱいいてね。だから、うちの母親が「私一人いれてくれない?」って言ったけど、「いっぱいだからだめ」って言われて、ほか行ってダメって言われて、私、「だめなところに行ったってしょうがないから、死ぬときは一緒なんだから、うちに帰って寝てたほうがいいから」って。

 

ーみんな死ぬんだから一緒のほうがいい

私、どうもそういうふうなあれなんですよ。姉もいたから、「私が一人残ったってしょうがないんだから、こっちでダメになればみんな一緒に死ぬんだから、お母さんたち一緒の方がいいから」って言って。うちの母親、「そう、あんたがそう言うなら」って言って。「やっぱり子供のほうが強いわ」って。

 

 

Q:空襲警報のときはうちの中でじっとして?

 

そうです。最初は押入れの中に穴ぼこっていうか、一応、一人入れるくらいのあれ、(防空壕を)作ったんですけどね、どっちみちここにいたって、こんなんじゃ生きてられないと思うからっていうんで、そこやめちゃって、二畳のほうに穴をほってやったこともあるんですよね。だからけっこうそういうのは大変ですよね。私達は小さいからなんにも手伝わないからいいんだけど、親はね。

 

Q:必死でしたよね、命を守るために。

親は子供のあれだからと思ってやったんでしょうけどね。

 

松原さんのインタビュー  3/ 8  (インタビュアー宮本)
(2018.6.8)

 

 


銀行おばさんになって

Q:松原さんは「銀行おばさん」というふうによく呼ばれていらしたから、銀行にお勤めだったのでしょう?

はい、銀行は学校出てすぐに、友達と二人で「どうしようか、一緒に入れるようなところがいいね」とか言いながら、なんとなく受けたら二人とも入っちゃった。私はずっと本店にいたんですよ。

で、こっちに、深川にできちゃったんで、私より一年、二年くらい上の人かな、こっちにできたときに来てたんですけど、そしたら「一緒にやる人が気に入らないからあなた来ない? 近いんだから」っていうんで、深川のほうへ来ることになっんです。本店は、それでも7年くらいいたのかしら。

本店は丸の内。東京駅のすぐそばですよ。だから一本で行けたし、帰りは、あの頃ですから遅くまで残業させられるでしょ。みんなが「若い人だから、運転手さん、気を付けて送ってあげてね」とかね、お姉さんだけはいろいろ言ってくださるの。「私たち見てるから大丈夫よ」なんて言って。

あの頃、怖かったですもんで。外人さんがあそこの勝どきのところにいてヒューヒューヒューヒュー言ってるのよね。何やってんのかと思ったら、通る人にね。

 

Q:アメリカの軍人さん?  戦後の頃?

うん。あれは戦争終わって割合すぐですよね。
私が入ったのは24年かだから。

 

Q:じゃ、本当に怖いときでしたね。

そう、怖かったですよ、やっぱり。変な話、橋のところにたむろしちゃって、4、5人くらいずついるんですよ。そうすると、通るとピューって口笛吹いて。だから一人で帰るのは怖かったですね。で、バスも割合早くなくなっちゃうんですよね、そういうときはね。
そういう思いしてないでしょ。いいですよね、今の時代はね。

 

Q:たしかに今は夜中でも女の子一人でタクシーに乗っても怖くないですものね。

そうですよね。だからそのころ一人でタクシー乗ったら、私より上の人達がね「美枝ちゃんね、私たち、見ててあげるからね。運転手さんの名前もちゃんと控えたからね」とか言って。それで運転手さんに「よろしくね。送ってあげてくださいね。」って。

丸の内でしょ、ずっと月島まで。

 

Q:距離ありますものね。

ありますものね。割合いい運転手さんだったからよかったんですけどね、あのころは怖い運転手さんというか、あまり柄のよくない人もいたんですよね。

 

Q:ところで、ずっと今のおうちに住んでいらっしゃるのですか。

ええ、多少なおして広くなってはいるんですけど。前は四畳半っていう感じで、あと二階があって。まあお隣さんなんかよりは広かったんですよ、それでも。

で、だんだん、こっちのほうも空いてるから、それじゃ足していこうって言ってさ。だから三畳、三畳になったから、もうそうすると使いにくいんですよ、かえって。

で、使っている子がいたんで、その子をそれじゃここで泊めてやろうっていって、そこの三畳に入れて。

だから、その人も、最初のうちは家賃をとらなかったんですよ。で、二階が結局、二階に住ませてやろうっていったときに、四畳半かな上は、だから四畳半があるからそこで、その代わりお家賃としていくらか払ってもらおうかって言って。

 

Q:それは戦前の話ですか。

もう戦後ですよ。だってその人も施設にいた子だから。それで施設からうちへきて、うちのほうで養ったというか。それで、使っているから多少は、小遣い銭くらいだと思うけど、結局あげてたでしょ。

Q:何人くらいの方が借りていたのですか。

うちは、その子一人だけ。

 

ー両親の手伝いに魚河岸へ

それと、父親がやってて兄がやって、母が最初にあそこまで行ったんですよ。お金勘定だけはやる。で、行ってて、休みのときは私が代わりに、こっちが休みのときに行くのね。銀行休みだから。じゃ、具合悪いから、ちょっと行ってくれるって。私なんか休みなし。それで一銭ももらわない、ただ働きでしょ。そのころは「しょうがないや」と思ってやってましたけど。

 

ー父親と市場で昼食

でも父親がまだ生きているときは、お昼になると、「じゃ食べて行こう」って言って、市場の中にいろんな食べるところがあって、自分がいつも行っているところに連れて行ってくれて、そこでお昼食べて帰ってくるの。

 

ー銀行が休みの日は母の代わりに市場でお手伝い

だから、銀行お休みの日はそれで行くの。母が具合悪い時とか、そうすると、やっぱり一人ね、勘定する人がいないからって言うんで、私が、「休みなんだから。ちょっと来てやってくれ」って言うから。嫌なんですよ、本当は。だって計算の仕方が違うでしょ、銀行とまた。銀行の方が慣れているかさっさっさってできるけど、河岸にいったらこれはいくら?シモまであるから大変なんですよ。慣れてくればなんともないんでしょうけど。だから私も苦労しましたよ。

 

Q:魚河岸にお父さんが勤められていて、お手伝いさんがいて。

父親は、私が小さい時はお店で使われてた。それで、私がもうそこにお手伝いに行くようになったときは自分のお店になっていたから。それでやっぱり、前に父親が勤めていたところの社長の奥さん、奥さんというか、見えてね、「名前をあげるからやってくれないか?」って言われたらしいんですよ。

 

ー市場で鑑札を取ってお店を持つ

だけどやっぱり昔の人でしょ。「先輩がいるのに私がもらうわけにはいきません」って断って、自分は、うちの姉と母親が、あそこ売りに出したとかなんか、あったんですよ、そういうことが一回。で、そのときに行って、姉と母親が交代でいって、それで鑑札とった。やっぱり鑑札がないとあそこでお仕事できないでしょ。だからああいうのも大変なんですよね。

 

私なんかは、まだ女学校を卒業してなかったから。まあ、親が卒業させてくれたようなもので、大した勉強もしないのに。

 

ー私は銀行へ就職

だから友達も、一緒に銀行入ったんですよ、その人は。でもその人はすぐに支店に回されちゃったのね。するとやっぱり寂しいでしょ、こっちも。いやだなと思っていたけど、でもだんだん慣れてくると、皆さんとうまくやっていくようになったから。それでも、銀行に長年勤めて。それでやっているうちに本店から深川に支店ができたんですよ。で、私がそこに来る前に、私より先輩の人がこっちに来てて、「松ちゃん、家が近いんだから、こっちきなよ、こっちきなよ」って言うから。それでそこに移動させてもらって。

 

ー朝の通勤時に勝どき橋が開くと大変

勝鬨橋がほんとに近くていいんですよね。こっち行くと、勝鬨橋がちょうどこう開くときがくるでしょ。だから、時間はその日によって、たまたまこういう時にあっちゃうと、5分、もっとですね、10分近く降りるまでかかるでしょ。「遅刻しちゃわないかしら」って心配しちゃう。まあうまくいったからいいんですけどね。

 

でも本店のほうが楽は楽なんですよね。こっちはお店がちっちゃいでしょ。するとお客さんも細かいお金をお持ちでしょ。だからあんまりあれじゃなかった。でも、いまだに、あそこを私が歩いていると、「あら、しばらくじゃないの」って声をかけてくださるお客さんがいらっしゃるの。向こうの方で。「あら、だれだったかしら」。顔は何となく覚えていても名前までは分からないでしょ。だけど、「しばらくね」なんていって。その方ももう亡くなったでしょうね、だいぶたっているから。

 

現在の勝鬨橋

松原さんへのインタビュー  2/8   (インタビュアー宮本)
(2018.6.8)


松原美枝子さんのお話

Q:松原さんはいつごろから月島にお住まいですか。

ーお父さんが行徳から日本橋の魚河岸へ

私が生まれる前から、父と母が。行徳に実家あるんです。それで父親が魚が好きで、一人だけ単身で、日本橋にまだ魚河岸があったときに来ちゃったんです。そこで住み込みでやってて、やっぱりお魚とかさばいたりするのが好きだったみたいね。結構長く行ってましたね。また器用なの、それが。だからお刺身つくってもきれいに盛ってくれるから、やっぱりああいう食べ物は飾りですよね。

 

Q:一種の芸術品ですものね。

そうですね。だから父親がやったのはすごくおいしそうに見える(笑)。母なんか、ブツブツって切っちゃうから。でも食べてみると、ものは同じだからいただきますけどね。でもやっぱり父親がやっているときれいに並べて。だからそういうので私達を育てたから。その割にそういうことは私できないの。

 

 

Q:お兄さんはそういう血を継いだんじゃないですか?

兄はだめ、割合に。一段さがって甥の方が上手ですよ。器用です。だからやっぱりあれは血でつながるんじゃないんだね。やっぱり小さい時からおじいちゃんがやるのを見てたり。うちの兄はあまり上手じゃなかったから。ひいおじいちゃんのを見てたから、やり方なんかは分かるけど。

 

 

Q:お父さんは魚河岸に勤めていらしたんですね。

ーお父さんは本当は大家さん業

そうです、そうです。父のうちは、大家さんなのよ、本当は。
月島じゃなくて、千葉県のみなとって、渡ってすぐのところにあるんですよ。そこで大家やってたり、おじいさんっていう人は、80いくつまで自転車に乗ってそれの集金に行って。うちを貸しているでしょ。だから80いくつまで、自転車によく乗れたもんだなと思って。私なんか、80前になって自転車に乗れないですもん、怖くて。

 

ーお母さんはお酒を商っていた

だから父親のうちは、割合いいおうちだったのよ。母のうちはお酒を売ってたのかな。だから、私達が夏休みに行っていると、お酒を飲みにみんな、お手担ぎっていうのかな、皆さん担いで持ってくるでしょ。皆さん疲れたらそこで一杯やっておうちへ帰るという感じで。

 

Q:じゃ、お母さんは飲み屋さんのような感じもやっていらした?

そう、母親のほうはね。父親のほうは、大家さんで、デンとしてたから。そのかわり、おばさんの内職がわりに、やっぱり使っている人がいるから、よそ行って飲むよりも自分のところで飲んだ方が結局安くあがるでしょ。そういうので、そうすると、おばあさんのほうも身入りになるから。やっぱり考えてましたね、そういうの。私なんかそんなこと考えもしないけど。

 

 

月島の路地の風景

松原さんへのインタビュー 1/8   (インタビュアー宮本)
(2018.6.8)