裏路地は釜と洗濯と社交場

Q:テレビが出始め他頃は画期的でしたね。やはりご近所でみんなが集まって見ていたんですか。

出始めの頃はそうですね。

特にテレビが出始めた、テレビが売り出されたのはいつごろなんですかね、28年に放送開始ですよね。

だから私が生まれた年なんですけど、そのあと白黒テレビが売りに出されたという事なんでしょうけど。

うちのご近所の、うちの長屋の端のほうに住んでいた、二階に住んでいた人で横内さんという方がいるんですけど、その方がテレビを買ったんですよね。ご近所では初めて買ったんですかね。で、テレビを見にご近所の人で集まって行ったりしたことがあります。

うちでも白黒テレビを買えるようになって、それからは人の家に行ってテレビを見るということはなくなったんですけど、家でテレビは見るようになりましたけど。ご近所の人の家に行ってそういうふうにテレビを見せてもらったり遊んだりというのが昔はありましたね。

 

Q:路地には表路地と裏路地があると聞いていますが。

そうですね。この長屋というのは表路地というのと裏路地というのがあるんですけど。

 

ー裏路地はご飯を炊くところで、女の井戸端会議の場所

うちの裏路地のほうではご飯を炊く釜がありまして、昔はちゃんと木をくべてご飯を炊いていたんですね。たぶん私は記憶にないんですけど、かなり長屋と長屋の間が広かったんで、そこに五右衛門風呂みたいなものを置いて、そこで風呂に入ってたりもしてたんじゃないかと思うんですけどね。

 

裏路地はそういうような、いわゆる台所とご飯を炊くようなところが向かい合っているわけで、それで、ご近所の奥さんなんかとうちのおばあさんやおふくろが、食事とかを作りながらいろいろしゃべったりとか、そういうようなつきあいがあったんですよね。

 

 

ー裏路地は洗濯場でもあった

裏路地は、ちょうど排水のところがあったりして、そこで洗濯したり、昔は洗濯機とかないですからたらいを置いて、そこで手で洗濯をするというようなことをみんなやってたわけでね。それはすべて裏路地でやっていたということですね。

 

ー表路地には鉢植えが、春には山本さんの沈丁花の香り

表路地の方は、私の小さいころは植木ものというのはあまりおいてなかったんですよ。かなり路地自体が広く感じられたんですよね。で、その後、皆さん植木が好きですから、どんどんそういう植木ものを置いちゃって、路地自体がどんどん狭くなっていっちゃったんですけどね。

だけど、そういう植木ものがあるというのはすごくやっぱり心が和むというのがありまして、とくに山本さんの家には沈丁花の苗がありまして、春先になるとその沈丁花の香りがすばらしいんですよね。そういうような記憶があります。

山本さんの沈丁花を一株いただいて、今、家のほうに沈丁花が植わってますけど、やっぱり沈丁花の香りを嗅ぐと昔の、山本さんがおられた、そういうのを思い出されるような感じがします。

 

山本さんからいただいた沈丁花

 

Q:社会人になってからはどうですか。

ーその後は仕事一筋になってしまった

私が高校を卒業して働くようになってからは、もう仕事一筋になっちゃって、地域の方々とはほとんど交流がなくなってきてましたね。本当に忙しい仕事に随分回されましたので、家に帰ったら食事をして寝るだけみたいなそんな生活でした。それがいまだに続いているというような状況です。

ですので、隣近所の方々との交流というのは今ではもうほとんどないというような状況なんですけど、昔の子供時代の思い出で今生きているような、そんな感じがします。

現在はもうほとんど何もないですね。

 

宮本英一氏へのインタビュー  4/6    (インタビュアー宮本)
(2018.6.10)


路地の思い出・獅子舞、おばけ大会

Q:お正月には月島の路地にも獅子舞が来ていたのでしょう?

ー獅子舞の思い出、狐もひょっとこも登場

お正月なんかは当然、いろんな行事があったんですけども、そこの路地で羽根つきをしたりとか、やったんですけども、昔、獅子舞の人達が各路地をずっと、佃島から月島にかけてずっとまわっていくんですよね。

で、値段によっていろいろ出し物が変わってくるんですけども、うちはちょっと貧乏だったんであまりお金は払えなかったんですけども、うちの座敷でお獅子が獅子舞をしてくれると、そうようなこともあって。

で、お隣の松原さんの家は非常に裕福な家で、そこはひょっとことかキツネとか、いろんな出し物をするんですよ。お獅子だけじゃなくて。それが非常に面白かったですね。

ほんとに今でも印象に残ってて、今はそういう獅子舞が回ってくるというようなことがまったくなくなってしまったんですけど、昔はそういう人たちがいましたので、非常に楽しかったですね。

 

ー交番の隣にあった映画館と芝居小屋

月島は月島温泉のところのちょっと先、ちょうど交番の並びにあたるんですけども、今マンションになっているところになるのかな、そこに東映のションベン映画館と昔言われていた、その東映の映画館と芝居小屋がありまして、東映の映画館は中に入るとトイレの 臭いがすごいんですよね。臭くてね。

『月光仮面』だとか、『新五十番勝負』だとか、そういうのをよく見に行きました。東映の映画なんですけど、当然ね。映画館にはよく連れていってもらいました。

 

ーお岩さんの芝居はものすごく怖くて、夜眠れなかった

芝居小屋ではすごく印象に残っているのは、夏にお岩さんの芝居をかかったんですよ。うちのおじいさんおばあさんと、あとおやじもおふくろも一緒に行ったのかもしれませんけども、見に行きまして、小さかったんで、すごい怖くて、その夜は眠れなかったですね。芝居小屋はお岩さんの四谷怪談くらいしかまったく印象はないんですけど、そういう小屋があったというのは今ではちょっと考えられない懐かしい思い出になってます。

 

Q:佃大橋開通の時の思い出もあるんでしょう?

昭和39年に佃大橋が出来たということで、ちょうどその年に佃の渡しがなくなったという話なんですけど、小学校時代は鼓笛隊をやってまして佃大橋を鼓笛隊でパレードしたというようなことをしました。結構晴れがましい思いがあったですね。

 

ー佃大橋でも危ない遊びをやっていた

ちょっと危険な話を昔よくやっていたという話をしたんですけど、その佃大橋の下に非常階段というんですかね、橋の下に通れるような狭い道みたいのがあるんですよ。一歩踏み外すと川に落ちちゃうんですけど、そういうところも、危険なところが大好きなんで、そこを通って向こう岸まで行ったり、そんなこともやってまして、そこで子供が落ちて死んだとかいう話もきいたことがあるんですけど、今から思うと危ないことをしていたと思うですけどね。

 

ー路地や三間道路が再開発で無くなるのは本当に寂しい

そういう路地だとか三間道路だとか、月島はやっぱり路地で子供達がいっぱい遊ぶ、と。そういうような生活が定着してましたんで、再開発ということで路地自体がなくなってしまうということは本当に寂しいことです。

 

ー路地でのおばけ大会

とにかく路地にはいろんな思い出があるんですけど、また取り留めのない話になるんですけど、路地でお化け大会というのをやったことがあるんですけど、うちの姉さんがそういうのが好きというか、目立ちたがり屋というか、姉の友達とかいっぱい集めて、路地でお化け大会をやるというので、夏休み、夕方ちょっと暗くなってから、ちょっと白く顔を塗ったり、お化けの格好をして、近所の人が通るときに驚かすというような、そういうお化け大会の催しみたいなのをしたことがありますね。それもすごくいい思い出だと思います。

 

住吉神社のお祭りで子供神輿を担ぐ準備
後ろにはおばあさんが同じポーズをとって立っている

 

宮本英一氏へのインタビュー   3/6    (インタビュアー宮本)
(2018.6.10)


ローラースケートなど外で活発に遊ぶ

Q:物売りがよく路地にやってきたようですね。

ー金魚売り、おもちゃ売り

ええ。夏になると、いろんな物売りが来まして、金魚売りだとかも来ましたし、おもちゃを売るような人たちも来ました。

ーガイコツも

いろんなおもちゃがあるんですけど、手でこうやると糸が出てきてそれで遊ぶとか、ガイコツなんですけど、暗がりに持っていくと光るとか、そういうおもちゃを売りに来る人たちもいまして、そういうおもちゃを買ってよく遊びました。

 

Q:流行の遊びは何でしたか。

ー小学校の高学年の頃、ローラースケートが流行

とにかく私の小学校の頃というのは、路地で遊び、渡し公園で遊び、で、小学校の高学年の頃にはローラースケートが流行ってことがありまして、家でローラースケートを履いて、で、路地のところをローラースケートで走り回って、音がすごいんですけど、そういう音を出してもあまり近所の人から叱られた記憶がないんですけど、あと、三間道路のところはローラースケートで行ったり来たり、良く遊んでしました。車が来ない道なので、それほど走っていない道なのでいくらでもローラースケートで遊べたんです。

ー門前仲町の富岡八幡宮へローラースケートで行く

ローラースケートを履いて門前仲町の富岡さんの神社まで遊びに行ったとか、それでまたローラースケートを履いて月島まで帰ってくるとか、そういう遊びをしてました。

 

Q:子供時代、晴海や豊洲はどんな様子だったのですか。

ー晴海は原っぱで赤とんぼがいっぱい

あと、昔は晴海というのがほんとうに原っぱだったんですよね。で、秋になると晴海のほうに行くと赤とんぼがすごいんですよ、あとバッタ、そういうのをとりにいくとか、やってました。

ー豊洲は埋め立てる前は湿地帯

あと、豊洲のほうはすごい湿地帯なんですね。埋め立て前だったと思うんですけど、湿地帯で沼みたいなのが随分ありましてね、そこで筏を組んで、これもまた危険な話ですけど、筏で沼のところを渡って、それで自分たちの基地をつくるとか、そういうこともやったりしました。

 

Q:そばにある現在の西仲橋は屋形船などが停泊した静かなところですが、その頃はどんな感じでしたか。

ー西仲橋のところは倉庫街

ほんとに取り留めのない話になるんですが、西仲橋のところが倉庫街だったんですよね。で、いろんな木だとかなんだとかも置いてあって、そこで陣地を作りまして、川向うのところにも悪ガキがいまして、そこで陣地を作っている連中がいて、で、石の投げっこをして、これも危険な話で、で、怪我をした子供もいたんですけど、そういう遊びをしました。

 

現在の西仲橋

Q:親友との遊びで印象に残っているのは?

ー親友は山下造船の子

私の一番の親友が、山下造船の山下ヒロシというのがいたんですけど、小学校時代の第一の親友で、その山下ヒロシとはいろんなところに行って遊んで、山下造船の家のところもよく遊びに行ったんですけどね。

ー駄菓子屋さん

その山下と一緒に渡し公園で遊ぶとか、三間道路のちょっと先のところ、いま普通の住宅ですけど、スミヤさんという駄菓子屋さんがありまして、その駄菓子屋さんで駄菓子を買って、そんなことをしてました。

 

Q:月島と言えば、もんじゃですが。何か思い出はありますか。

小学校から帰ってからなんですけども、ちょっとおなかがすくというときにはここの路地の一つ二つ向こうの路地だと思うんですけど、もんじゃやさんがあって、もんじゃの鉄板が、大きな鉄板がひとつだけありました。

ー10円もんじゃ、もんじゃおせんべいをお土産に

そこの鉄板が、今、黒い鉄板なんですけども、本当に銀色の磨かれた鉄板で、そこでもんじゃが10円くらいなんですけど、キャベツだとかサキイカだとか天かすだとか、そんなもんしか入ってないんですけど、そのもんじゃを食べて、おせんべいができるんですよね。そのおせんべいを丸めて、それをお土産に持って家に帰って、で、家でそのおせんべいをたべるというのが習慣みたいなものになってて、だいたい小学校終わってからそのもんじゃやさんにいって、マガジンだとかサンデーだとかを読んで、それでもんじゃを食べて、そんなことをしてましたね。

 

自宅の前で

 

 

宮本氏へのインタビュー  2/6    (インタビュアー宮本)
(2018.6.10)