昔はお隣同士のつきあいが良かった

Q:町が変わって、「おはよう」って声をかけていたのがなくなりましたよね。

そうそう。前は、お隣のおばちゃんなんかうちへしょっちゅう遊びに来ていたの。「あら、おばさん、また来てるわ」っていうくらいに。

でも、こちらのおばあちゃんは、あんまり来ないのよね。たまにしかね。でも、お裁縫が好きだったみたいだから、ちょっと縫ってもらうときはよかったの。

お隣のおばさんはほとんど毎日来てましたよ。で、お茶飲んで帰る。

 

Q:同じ年代のおばあさんがいなくても来られてたんですか?

でも、だいたい母と同じくらいの年だからね。だから、母は大抵はうちにいましたからね。

それで、やっぱり、一人でうちにいるというのも嫌なんでしょうね。それでおじさんが、変な話、ボケってなっちゃって、一回私がなんか作ったのをおばさんと二人で食べるようにと思って少し作って持ってってあげたら、全部おじさんが食べちゃった。で、お皿だけが残ってた。そういうこともありましたけどね。そのおじさんもいいおじさんで、自動車を運転してたから、私達が子供の頃は、じゃ、佃までおじさんとりにいくから、帰りに乗せてもらおうって、子供たちみんな、後ろに乗って帰ってきたことがあるんですよ。

 

ー昔は隣のうちとすごく仲が良かった

だから昔はそうやって、お隣のうちとすごく仲良かったり、それからうちのお向かいさんなんか、うちへよく、あのおじさんが厳しかったから、おばさん買いに行くときうちへ寄るんですよ、ちょっと。それで一杯やって帰るのね。

おじさんがいると、おじさんうるさくて、一杯どころじゃないでしょ。それで、なんかうちの甥にパチンコのお土産だって持ってくるわけ。「あ、おばさんまたパチンコでしょ?」って言うと、「そうだよ」って言いながらうちへ寄って、それを置いていくと、うちの母親がそのかわりにお酒を出して、そうすると一杯飲んで、「じゃ、また来るね」って帰っていく。そういうつきあいはありましたね。

で、今よりはおつきあいが結構よかったですね。

 

ーお風呂をもらいに隣のうちへいく

で、最初、宮本さんちで、あの横のところに、お風呂つくったんですよ。お風呂というか、ほんとに何にもないんですけど、ただ湯船があって、あとちょっと流しくらいのところがあって、で、「お風呂入るんならどうぞ」ってくるから、「はい」なんて言って、それでお風呂入ったこともありますしね。

 

それをやめて、今度、うちの中につくったんですよ。一回か二回行ったわね。

おばあちゃんは「いつでもいいよ」って言ってくれるから「すいません」ってさ。やっぱり遠くまで行くの面倒くさいから、近くにあるからってさ。

だから、おばあちゃんとは仲良しでした。あと、多美ちゃんとかね。

で、多美ちゃんたちも猫ちゃん好きでした。いっぱいいたんですよ。猫ちゃんが赤ちゃん産んで。で、見に行くと、本当はいけないんですね。食べちゃうんですよ。とられると思って。それでも見たいから、怖いもの見たさでさ、「おばさん、いい?」「今日はいいよ」って見てね。

 

ーあの頃は良かった、お隣同士のおつきあい

でも、あの頃はよかったです。隣同士のね。今は本当の他人さんという感じでしょ。だからなんか寂しいですね。だから、今、また、お向かいのおばさんが、どっか入ってるでしょ。あのおばさんもしょっちゅう、私のところにタンタンタンって戸を叩いて来るんですよ。

そうすると、あんまり叩いちゃいけないって連れてっちゃった。それでそっちのほう、病院のほうへ入れちゃったから、やっぱり寂しいんでしょうね、おばさんもね。かわいそうに、なんでむげにそんなことしちゃったんだろうって。私なんかそう思いますけどね。

 

Q:お向かいのおばさん、今は歩くのが大変そうですね。

私も右がだめなんですよ。でもこっちを動かさないとしょうがないから、やってはいますけど。

 

今年一月降雪後の朝に

松原さんへのインタビュー  6/8 (インタビュアー宮本)
(2018.6.8)


月島で踊りや木目込み人形作り

Q:現在のお話をお聞きしますね。ご近所の方と踊りをなさっていたでしょう。最近はどうですか。

もう、わたしも体が動かないというか、やっぱりずっと立ってるのがつらいでしょ。だからやらなくなっちゃったら、余計にダメですね。本当はやったほうがいいんですよね。

 

Q:月島社会教育会館でも発表会とかあったんでしょう?

ありましたね。今でもやってますよ。今、もう踊りもやめちゃった。あ、一人の人は教えてるかなんかで私にも招待状くださるのよ。

ところがこないだ、うちは調子が悪くて、しょうがないから、時間遅いけど行って、一応ね。その方のは見られなかったんだけどいいわと思って。

で、会ったから「ごめんなさいね、ちょっと調子悪かったからあなたのみられなかったのよ」って、それでちょっとおしるしして帰ってきたら、「こないだありがとうございました」ってわざわざきて。やっぱりそれだけの縁でね。

 

Q:そうやってご縁があってつながっていて嬉しいですね。

ー踊りを通じて区役所の人とも仲良くなる

皆さんも踊っているところを見てもらいたい、って。私なんか恥ずかしくて、おどりのおの字くらいしかできないから。だからもう恥ずかしいから、いいや。そしたら区役所の人に、「松原さん、ちゃんとこうやんなさい」って言われて、「もういいのよ、私は隅っこでこうやってれば」って言ったら、「もっと前出て、前出て」なんて言われて。だから、結構区役所の人とは仲よくはなりましたけど、今も行くと何人か。

 

ー木目込み人形を教え始めて

私、しばらく前は、踊りじゃなくて、今度は木目込みやるようになったから、あれをやってたんです、ずっと。やっぱり人数が一人減り、二人減りで、今、具合悪くて見えない人が増えちゃってもうやめたんですよ。

 

木目込みも最初は簡単なのからやらないと、最初からあまりいいのをやっちゃうとだめなんですよね、逆に。

だから一番小さいような細かい、何これ? なんていうような、自分では思っても、そのうちにそれがすごく可愛く見えるようになるんですよね。

今はもう教えてませんけど、前はそうやって、大したことじゃないから。

で、一人、私より古い方が来てくれて、その方が教えてくれてたんですけど、結局。

最初初歩的なことは私がやってあげると、その人だけに頼めないでしょ。だから、そういうことで私がやってましたけどね。

 

教えるほどじゃないんですよ。だけど、あれ、こうあるでしょ。そうするとこれをちゃんときれいにして磨いてからじゃないとだめなんですよ。その磨き方もものによってはどこを磨いたらいいっていうのがあるでしょ。

 

ー初めは小さいものから、見えないところも丁寧に

だから、最初からあまり大きなものじゃなくて、小さなものからやって、ああ、こうやればきれいになるんだな、下の見えないようなところもちょっとやってあげて、きれいにしてあげて平らになると、着物着せてもきれいなんですけどね。

雑にやっておくと、着物がうまくつかないのよ。縫い物、結構作るには大変でしたけど、でも途中からは、もうみんな大変だから糊買ってきて、その糊でやってもいいわよ、ということになって、そのほうが楽だから。

自分でといて、一からやるというのは大変なんですよ。何でも。少しこれの中にこれを入れてとか。

私も前は着付けのほうも、ちょこっとですけど、やったことはあるんですけど、どうも物覚えが悪いからすぐ忘れちゃうのね。

 

月島社会教育会館(月島区民センター)
今年の梅の花。
春に先駆け香り高く開花。

 

松原さんへのインタビュー   5/8    (インタビュアー宮本)
(2018.6.8)


死ぬときは死ぬんだ

Q:渡し船の思い出は何かありますか。

私も本好きだったから。だから、築地のほうまで、築地にあれがあったんですよ。図書館。だからそこまでいって。借りてくるとまた返さなくちゃいけないから大変だから、読むだけ読んで、で、帰ってくる。そのうちこっちができたから。あれができるまでは大変でしたよね。

 

まだ、お船が通ってたでしょ。だからあの船で。あれタダだったからよかった。佃と、月島にもあった。

 

友達が第三っていうところにいったのね。そこに行ったのに、小学校の友達だから、私は大妻いっちゃったから、二人で、「時間合わせて、ここで落ち合う?」って言って、あそこのところで落ち合って帰ってきたこともあるの。船で。

 

Q:船で戻ってくるときに楽しいお話をされたのですか。

「今度どっか行きたいね」とかさ。いろいろありましたよ。

ー今の人たちは幸せ

でも今の人達は幸せだと思いますね。怖い思いをしてないしね。

ー死ぬときは死ぬんだって思っていた

私ね、「死ぬときは死ぬんだ」って思っているから、割合平気だったので。

ところが、母親は一人でも残してやろうと思うから、一人残ったって本当はしょうがないんだけど、でも母親としてみればさ、そう思ったんでしょうね。いろんなうちに、あそこのうちにあるから、入れてくれるかどうか聞いてみようって連れていかれたから、私は途中で「母さん、どこ行ったって同じだから、だったらうちへ帰って三人一緒に寝てて、逝ったら逝ったでいいじゃない」って言って。私は徹底していた、そういう点でね。

でも今思うと、その頃は懐かしいですけど、そのころは親も大変でしたよね。

ー配給のお米はわずか

だって、お米は少ないし、配給でしょ。ところが私はそのころあまり食欲がなかったから、ほんとに食事、大してしない。お隣のおばさんがびっくりするくらい。「美恵子さん、これだけしか食べないの?」帰ってきてから学校で食べないで持って帰ってくると、「なに美恵子さん、あなたのお弁当箱、寄ってるじゃない」。そうなの、こんなお弁当箱で、このへんに寄っちゃってて、「こんだけしか食べないの?」「そうあまり食べたくないからね」って。

 

ーお弁当のわずかなご飯とパンを交換したり

それで、お米が配給だからなかなかないでしょ。そうすると、パンを焼いてくる人もいるんですよ。うちはパン、あまり。うちの姉は好きだったけど、私はあんまり食べなかったから。そしたら、しょうがないってことないけど、「あなたごはん食べたいだろうから、かわってあげる」って。パンは自分のところでちょこっと作れるから。「じゃ、それ私がもらっていくから、あんたこのお弁当食べちゃっていいよ」ってあげると、喜んでましたよ、やっぱり。

 

Q:お米が貴重だったんですね。

そう、お米が貴重品でしょ。私はその頃あまり食べなかった。今のほうが食べるようになっちゃった。

 

Q:そのときの家族構成は? お父さんお母さんとお姉さんとお兄さん。

兄は予科練で。バカみたいね、「メガネ、ダメ」って言われたのにもう一回やってくれってやったらしいの。それで受かっていっちゃった。でもやっぱり運があるのね。

自分より一期後の人が、うちの兄より先に突っ込んだのはいいけど、何もしないうちに、海の藻屑になっちゃったのよね。それは帰ってきてから言いましたけどね。そういうのはかわいそう。

親だって、戦死ならば国から多少のあれ、いただけたでしょうけどね。そんな途中で何もやらないのに逝っちゃったらどうなったのか、そのことまでは私は分からないけど、親がかわいそうでしたね。

私なんかは一番最後だからどっちでもいいような感じだった。

 

Q:お兄さんは戻って来られて一緒に暮らされていたんですか。

 

ずっとこっち。姉は割と早くお嫁に行っちゃったでしょ。だからたまに来るくらいで。兄と兄嫁さんは二階に。

私は勤めだからほとんどいないから、母親がいるくらいで、だから、兄たちもよかったんじゃないですかね。

 

宮本多美子(多美ちゃん)
勝鬨橋にて

 

松原さんのインタビュー  4/ 8  (インタビュアー宮本)
(2018.6.8)