「じっちゃん、ばっちゃんのお話」カテゴリーアーカイブ

裏路地は釜と洗濯と社交場

Q:テレビが出始め他頃は画期的でしたね。やはりご近所でみんなが集まって見ていたんですか。

出始めの頃はそうですね。

特にテレビが出始めた、テレビが売り出されたのはいつごろなんですかね、28年に放送開始ですよね。

だから私が生まれた年なんですけど、そのあと白黒テレビが売りに出されたという事なんでしょうけど。

うちのご近所の、うちの長屋の端のほうに住んでいた、二階に住んでいた人で横内さんという方がいるんですけど、その方がテレビを買ったんですよね。ご近所では初めて買ったんですかね。で、テレビを見にご近所の人で集まって行ったりしたことがあります。

うちでも白黒テレビを買えるようになって、それからは人の家に行ってテレビを見るということはなくなったんですけど、家でテレビは見るようになりましたけど。ご近所の人の家に行ってそういうふうにテレビを見せてもらったり遊んだりというのが昔はありましたね。

 

Q:路地には表路地と裏路地があると聞いていますが。

そうですね。この長屋というのは表路地というのと裏路地というのがあるんですけど。

 

ー裏路地はご飯を炊くところで、女の井戸端会議の場所

うちの裏路地のほうではご飯を炊く釜がありまして、昔はちゃんと木をくべてご飯を炊いていたんですね。たぶん私は記憶にないんですけど、かなり長屋と長屋の間が広かったんで、そこに五右衛門風呂みたいなものを置いて、そこで風呂に入ってたりもしてたんじゃないかと思うんですけどね。

 

裏路地はそういうような、いわゆる台所とご飯を炊くようなところが向かい合っているわけで、それで、ご近所の奥さんなんかとうちのおばあさんやおふくろが、食事とかを作りながらいろいろしゃべったりとか、そういうようなつきあいがあったんですよね。

 

 

ー裏路地は洗濯場でもあった

裏路地は、ちょうど排水のところがあったりして、そこで洗濯したり、昔は洗濯機とかないですからたらいを置いて、そこで手で洗濯をするというようなことをみんなやってたわけでね。それはすべて裏路地でやっていたということですね。

 

ー表路地には鉢植えが、春には山本さんの沈丁花の香り

表路地の方は、私の小さいころは植木ものというのはあまりおいてなかったんですよ。かなり路地自体が広く感じられたんですよね。で、その後、皆さん植木が好きですから、どんどんそういう植木ものを置いちゃって、路地自体がどんどん狭くなっていっちゃったんですけどね。

だけど、そういう植木ものがあるというのはすごくやっぱり心が和むというのがありまして、とくに山本さんの家には沈丁花の苗がありまして、春先になるとその沈丁花の香りがすばらしいんですよね。そういうような記憶があります。

山本さんの沈丁花を一株いただいて、今、家のほうに沈丁花が植わってますけど、やっぱり沈丁花の香りを嗅ぐと昔の、山本さんがおられた、そういうのを思い出されるような感じがします。

 

山本さんからいただいた沈丁花

 

Q:社会人になってからはどうですか。

ーその後は仕事一筋になってしまった

私が高校を卒業して働くようになってからは、もう仕事一筋になっちゃって、地域の方々とはほとんど交流がなくなってきてましたね。本当に忙しい仕事に随分回されましたので、家に帰ったら食事をして寝るだけみたいなそんな生活でした。それがいまだに続いているというような状況です。

ですので、隣近所の方々との交流というのは今ではもうほとんどないというような状況なんですけど、昔の子供時代の思い出で今生きているような、そんな感じがします。

現在はもうほとんど何もないですね。

 

宮本英一氏へのインタビュー  4/6    (インタビュアー宮本)
(2018.6.10)


路地の思い出・獅子舞、おばけ大会

Q:お正月には月島の路地にも獅子舞が来ていたのでしょう?

ー獅子舞の思い出、狐もひょっとこも登場

お正月なんかは当然、いろんな行事があったんですけども、そこの路地で羽根つきをしたりとか、やったんですけども、昔、獅子舞の人達が各路地をずっと、佃島から月島にかけてずっとまわっていくんですよね。

で、値段によっていろいろ出し物が変わってくるんですけども、うちはちょっと貧乏だったんであまりお金は払えなかったんですけども、うちの座敷でお獅子が獅子舞をしてくれると、そうようなこともあって。

で、お隣の松原さんの家は非常に裕福な家で、そこはひょっとことかキツネとか、いろんな出し物をするんですよ。お獅子だけじゃなくて。それが非常に面白かったですね。

ほんとに今でも印象に残ってて、今はそういう獅子舞が回ってくるというようなことがまったくなくなってしまったんですけど、昔はそういう人たちがいましたので、非常に楽しかったですね。

 

ー交番の隣にあった映画館と芝居小屋

月島は月島温泉のところのちょっと先、ちょうど交番の並びにあたるんですけども、今マンションになっているところになるのかな、そこに東映のションベン映画館と昔言われていた、その東映の映画館と芝居小屋がありまして、東映の映画館は中に入るとトイレの 臭いがすごいんですよね。臭くてね。

『月光仮面』だとか、『新五十番勝負』だとか、そういうのをよく見に行きました。東映の映画なんですけど、当然ね。映画館にはよく連れていってもらいました。

 

ーお岩さんの芝居はものすごく怖くて、夜眠れなかった

芝居小屋ではすごく印象に残っているのは、夏にお岩さんの芝居をかかったんですよ。うちのおじいさんおばあさんと、あとおやじもおふくろも一緒に行ったのかもしれませんけども、見に行きまして、小さかったんで、すごい怖くて、その夜は眠れなかったですね。芝居小屋はお岩さんの四谷怪談くらいしかまったく印象はないんですけど、そういう小屋があったというのは今ではちょっと考えられない懐かしい思い出になってます。

 

Q:佃大橋開通の時の思い出もあるんでしょう?

昭和39年に佃大橋が出来たということで、ちょうどその年に佃の渡しがなくなったという話なんですけど、小学校時代は鼓笛隊をやってまして佃大橋を鼓笛隊でパレードしたというようなことをしました。結構晴れがましい思いがあったですね。

 

ー佃大橋でも危ない遊びをやっていた

ちょっと危険な話を昔よくやっていたという話をしたんですけど、その佃大橋の下に非常階段というんですかね、橋の下に通れるような狭い道みたいのがあるんですよ。一歩踏み外すと川に落ちちゃうんですけど、そういうところも、危険なところが大好きなんで、そこを通って向こう岸まで行ったり、そんなこともやってまして、そこで子供が落ちて死んだとかいう話もきいたことがあるんですけど、今から思うと危ないことをしていたと思うですけどね。

 

ー路地や三間道路が再開発で無くなるのは本当に寂しい

そういう路地だとか三間道路だとか、月島はやっぱり路地で子供達がいっぱい遊ぶ、と。そういうような生活が定着してましたんで、再開発ということで路地自体がなくなってしまうということは本当に寂しいことです。

 

ー路地でのおばけ大会

とにかく路地にはいろんな思い出があるんですけど、また取り留めのない話になるんですけど、路地でお化け大会というのをやったことがあるんですけど、うちの姉さんがそういうのが好きというか、目立ちたがり屋というか、姉の友達とかいっぱい集めて、路地でお化け大会をやるというので、夏休み、夕方ちょっと暗くなってから、ちょっと白く顔を塗ったり、お化けの格好をして、近所の人が通るときに驚かすというような、そういうお化け大会の催しみたいなのをしたことがありますね。それもすごくいい思い出だと思います。

 

住吉神社のお祭りで子供神輿を担ぐ準備
後ろにはおばあさんが同じポーズをとって立っている

 

宮本英一氏へのインタビュー   3/6    (インタビュアー宮本)
(2018.6.10)


ローラースケートなど外で活発に遊ぶ

Q:物売りがよく路地にやってきたようですね。

ー金魚売り、おもちゃ売り

ええ。夏になると、いろんな物売りが来まして、金魚売りだとかも来ましたし、おもちゃを売るような人たちも来ました。

ーガイコツも

いろんなおもちゃがあるんですけど、手でこうやると糸が出てきてそれで遊ぶとか、ガイコツなんですけど、暗がりに持っていくと光るとか、そういうおもちゃを売りに来る人たちもいまして、そういうおもちゃを買ってよく遊びました。

 

Q:流行の遊びは何でしたか。

ー小学校の高学年の頃、ローラースケートが流行

とにかく私の小学校の頃というのは、路地で遊び、渡し公園で遊び、で、小学校の高学年の頃にはローラースケートが流行ってことがありまして、家でローラースケートを履いて、で、路地のところをローラースケートで走り回って、音がすごいんですけど、そういう音を出してもあまり近所の人から叱られた記憶がないんですけど、あと、三間道路のところはローラースケートで行ったり来たり、良く遊んでしました。車が来ない道なので、それほど走っていない道なのでいくらでもローラースケートで遊べたんです。

ー門前仲町の富岡八幡宮へローラースケートで行く

ローラースケートを履いて門前仲町の富岡さんの神社まで遊びに行ったとか、それでまたローラースケートを履いて月島まで帰ってくるとか、そういう遊びをしてました。

 

Q:子供時代、晴海や豊洲はどんな様子だったのですか。

ー晴海は原っぱで赤とんぼがいっぱい

あと、昔は晴海というのがほんとうに原っぱだったんですよね。で、秋になると晴海のほうに行くと赤とんぼがすごいんですよ、あとバッタ、そういうのをとりにいくとか、やってました。

ー豊洲は埋め立てる前は湿地帯

あと、豊洲のほうはすごい湿地帯なんですね。埋め立て前だったと思うんですけど、湿地帯で沼みたいなのが随分ありましてね、そこで筏を組んで、これもまた危険な話ですけど、筏で沼のところを渡って、それで自分たちの基地をつくるとか、そういうこともやったりしました。

 

Q:そばにある現在の西仲橋は屋形船などが停泊した静かなところですが、その頃はどんな感じでしたか。

ー西仲橋のところは倉庫街

ほんとに取り留めのない話になるんですが、西仲橋のところが倉庫街だったんですよね。で、いろんな木だとかなんだとかも置いてあって、そこで陣地を作りまして、川向うのところにも悪ガキがいまして、そこで陣地を作っている連中がいて、で、石の投げっこをして、これも危険な話で、で、怪我をした子供もいたんですけど、そういう遊びをしました。

 

現在の西仲橋

Q:親友との遊びで印象に残っているのは?

ー親友は山下造船の子

私の一番の親友が、山下造船の山下ヒロシというのがいたんですけど、小学校時代の第一の親友で、その山下ヒロシとはいろんなところに行って遊んで、山下造船の家のところもよく遊びに行ったんですけどね。

ー駄菓子屋さん

その山下と一緒に渡し公園で遊ぶとか、三間道路のちょっと先のところ、いま普通の住宅ですけど、スミヤさんという駄菓子屋さんがありまして、その駄菓子屋さんで駄菓子を買って、そんなことをしてました。

 

Q:月島と言えば、もんじゃですが。何か思い出はありますか。

小学校から帰ってからなんですけども、ちょっとおなかがすくというときにはここの路地の一つ二つ向こうの路地だと思うんですけど、もんじゃやさんがあって、もんじゃの鉄板が、大きな鉄板がひとつだけありました。

ー10円もんじゃ、もんじゃおせんべいをお土産に

そこの鉄板が、今、黒い鉄板なんですけども、本当に銀色の磨かれた鉄板で、そこでもんじゃが10円くらいなんですけど、キャベツだとかサキイカだとか天かすだとか、そんなもんしか入ってないんですけど、そのもんじゃを食べて、おせんべいができるんですよね。そのおせんべいを丸めて、それをお土産に持って家に帰って、で、家でそのおせんべいをたべるというのが習慣みたいなものになってて、だいたい小学校終わってからそのもんじゃやさんにいって、マガジンだとかサンデーだとかを読んで、それでもんじゃを食べて、そんなことをしてましたね。

 

自宅の前で

 

 

宮本氏へのインタビュー  2/6    (インタビュアー宮本)
(2018.6.10)

 


宮本英一氏のお話

Q:初めに自己紹介をお願いできますか。

 

名前は宮本英一といいます。簡単に自己紹介しますと、昭和28年の8月3日生まれです。今現在はもう64になっていますけど、生まれも育ちも月島です。

生まれたのは母親に聞いた話ですけども、聖路加病院で産まれています。今の聖路加は教会のあるところがアメリカ軍に接収されていましたので、看護学校があるところに産院があったようで、そこで産まれました。

で、育ったのが月島ということですけど、もともと体が弱くて、保育園とか幼稚園とかに上がる前は、ずいぶん病気がちな生活をしていましたね。

学校に上がるようになると体も結構丈夫になって、とにかく月島ではいろいろなところにいって遊び回ったという思いでしかありません。

 

Q:月島生まれ、月島育ちなのですね。子供時代の路地の様子はどうでしたか。

 

ちょうど私の家が路地の真ん中へん、四軒長屋の端っこの家でしたので、私の小さいころは路地も結構広かったんですね。いまではもう増築をしていて、長屋と長屋の間自体がすごくせばまっちゃっているんですけど、昔は長屋と長屋の間はかなり広くて、そこでもものを干したり、木を植えたりとか、遊べるようなスペースがいっぱいありました。

 

 

Q:どんな遊びをしていましたか

私は二人兄弟で、姉がいるんですけども、小さいころから姉さんと良く遊んだということで、どういう遊びをしたかと言ったら、雨の日になると、家の中でお膳を斜めにしまして、そこで滑って遊ぶ、そういうふうな遊び方をしたりしてまして、

とにかく晴れてれば外に出て路地で縄跳びをしたりとか、姉が良く縄跳びをやってましたので、友達ととにかく走り回った、そういう記憶がありますね。

 

ーおじいさんとおばあさんは長崎からやってきて、おじいさんは石川島に勤めていた

私は三代目になるんですけど、おじいさん、おばあさんが長崎から、渋谷にまず住んで、渋谷から月島に来たんですけど、おじいさんが石川島に勤めていまして、石川島に自転車で 通っているという生活をしていたらしいです。

 

ー近所づきあいは、おばあさんたちとお茶飲み

お茶飲みこれは後から聞いた話なんで、とにかく隣近所、近所づきあいが月島というのは非常に多くて、お茶を飲みに来て、で、お茶を飲みに遊びに行ってというのをおじいさんおばあさんはよくやってたわけで、そういうおばあさん連中の横のつながりがあるもんで、私は孫にあたるんですけども、おばあさんと一緒にくっついて行ってほかの家に上がりこんで遊んだりとか、よくやっていましたね。

 

ーいろんな家に上がり込んで遊んだ

うちの路地には、支那そば屋さんがありまして、恵理川さんという、今普通の住居になっていますけど、小さいころはそこでラーメン屋さんをやっていまして、そこでラーメンを食べたりとか、あと夏になると氷を売ってまして、熱いもので氷を食べたりとか、とにかくいろんな家に入り込んだ、そういう記憶が多いですね。

 

ー子供たちはとにかく路地で遊んだ

特に、隣のうちに、二階が物干しになっているんですけど、物干しのところをつたって隣に上がりこんで、隣の家に上がりこんでそこで遊んだとかっていう、そういうのもありましたし、あと路地では、女の子なんかもいたのでままごと遊びとか、それに加わって遊んだとか、とにかく子供達は路地でとにかく遊ぶ、いろんなことをして遊ぶということをしてました。

 

ー三間道路で缶蹴りをした

この路地は狭いですけど、缶蹴りなんかはあそこの三間道路のところで缶蹴りをしたりとか、そういうこともよくやっていました。

 

ー渡し公園でよく遊んだ

大きくなれば路地よりも渡し公園に行って、渡し公園でよく遊んだんですけど、昔はそんなに遊具というのはなかったんですけど、ブランコとかはあって、あと砂場があったんで、砂場で砂の団子を作って、山を作って、道路を作って、上から砂の団子を転がしたりとか、渡し公園ではとにかくよく遊びました。

 

ー結構危なっかしい遊びをよくしていた

渡し公園のまわりに柵が張り巡らされているんですけど、その柵のてっぺんのところがだいたい5~6センチくらいの幅がありまして、そこのところにのって公園を一周したりしたこともあるし、けっこう危険なことはしょっちゅうやってました。

 

墨田川のところは完全に堤防になってて、堤防のところのてっぺんのところにこのくらいの幅がありまして、そのてっぺんのところを走ったり歩いたりして、で、佃島まで遊びに行ったとか。ちょっと踏み外すと下は川ですので、ずいぶん危険なことをしてたんですけど、

あと、ちょっと思い出すのは、ユアサバッテリーというのがありまして、今は古いビルになってますけど、そのユアサバッテリーがそのビルをつくっていたころ、悪ガキと一緒にユアサバッテリーのつくりかけのビルの中に入り込んで探検したりとか、そういうことをしまして、そういう探検みたいなことはよくやりましたね。

 

月島温泉というのがあるんですけど、その月島温泉の手前のところで、二階に上がっていくとアパートみたいなよくわからないような建物があるんですけど、それも夜中、友達、悪ガキと探検に行きまして、真っ暗の中を走って遊んだとかっていう記憶があります。



おじいさんといとこの子
路地で

宮本英一氏へのインタビュー  1/6    (インタビュアー宮本)
(2018.6.10)


自分のうちも人のうちも一緒

Q:路地の良さって、どんなところですか。

昔はもっと親密でした。今よりは。今は、隣は何をする人ぞ、みたいなところあるでしょ。

ー自分のうちも隣のうちも一緒

昔は、隣のうちも自分のうちも、大して変わりないくらいに行ってましたもんね。子供も多かったせいもあるんでしょうね。子供も多いからそこのうちに行って一緒になって遊ぶでしょ。「おなかすいたね」っていうと、「なんとかがあるよ」とかって、向こうで出してきてくれると、「じゃ、それ切ってみんなで食べようか」って。「大丈夫かな?」って。「親に黙って食べちゃって大丈夫?」って。「まあ大丈夫よ。なんとか言うから」とか言って。「じゃ、みんなで食べよう」。

一人で食べちゃうと悪いけどさ。リンゴなんかも何等分かにして、で、むいてあげてね。


ー嫌いなカレーでもみんなで食べれば食べられる

うちのお隣さんなんて子供多かったでしょ。みんなでね、「今日は何食べようか?」なんて言ってると、「今日、うち、カレー作ったよ」なんて言うと、「それがいいね!」とか言って、自分のじゃないのに。「じゃ、それ食べようよ」「じゃ、そのほうがいいね」って。

若い子っていうか、私より下だから。「それがいい、それがいい」「みんなで食べた方がおいしいから」なんて。おばさんのがなかったんじゃないかと思う。

 

あたしなんか好き嫌いが多かったから、うちの母親が、そこのうちでカレー食べたのを、あまり好きじゃないからって、迎えに来たんですよ。

お隣さんちに行って、うちで食べないようなカレー食べて。やっぱりみんな一緒だと、わーっと食べるんですね、子供ってね。だから、上の子が「おばさん、今、一緒に食べてるよ」って言うもんだから、私を迎えに来た母親はびっくりしちゃって。「えっ」って。

 

ーあの頃はもののない時代だったけど、楽しかった

あの頃は楽しかったですよ。もののない時代でもね。お互いに何とかやりくりしてね。

 

ー「好きなだけ持ってって」

うちなんかよく、こないだも近所のおじさんに言ったんだけど、おじさんがね、「ちょっと一人前足りなくなっちゃったから、ご飯少しくれますか?」って来るんですよ。そしたらうちの母親が「好きなだけ持っていきなさい」って。自分でよそって持って帰るの。向こうは人数が多いから、子供さんも多いし、食べるじゃない。私なんか食べないほうだから、うちは残るんですよ、少し。だからね「好きなだけ持ってって」。うちの母親。大してお金もないくせにお金があるような顔しちゃって。

 

 

Q:味噌、醤油のおすそ分けも? 宅急便のお預かりもしていましたか。

 

今はね。宅急便の人も置いていかないでしょ。あんまり。なんか内緒じゃないけど。その人がいないとダメとかね。

でも、いろいろ何がいいんだか悪いんだか分かんないけど。

 

Q:今でも結構そういうおつきあいってあるんか。

ー「隣は何をする人ぞ」になってしまった

だけど、今は、「隣は何をする人ぞ」ってなっちゃったの。隣のおばさんはうちによく来ていた。こちらのおばあちゃんは人にうちにあまり来ないのね。私がその替わり、多美ちゃんのところに行ってたから。

でも、そういうふうになんかやってくれる人がいるっていうのはいいですよ。だって何から何まで自分でできないですよ。今になったら余計できないですよ。

 

ー母親の時代には無尽があった

母親の頃は無尽ってあったのよ。そうすると「今日は無尽のあれだから」って言うと、私はその間どっか行ってるんですよ。母がお茶菓子とお茶を出して、だから月に一回くらい、いろんなうちに替わっていって。やっぱり十人以上いたんですよね。だから月に一回くらいでしょ、そういう会があるの。だからぐるっと回るんですよね。

 

ー向こうの路地の人のほうが親しかった

その頃、こっちの人はあまりそういうのやらないの。向こう側のうちの人が多いんですよ。一つ通り隔てた側の人が。そうするとその人たちが、今度はうちが当番だからって言うから、そうするとみんなでそこのうちに行って、「その次はだれそれさんだよ」とかって。だからうちの母親なんか、こっちの路地の人より向こうの路地の人のほうが親しかったですよ。言われると「はいはい」って行くんだ、うちの母親も。

 

Q:うちのおばあさんも隣の路地の人がどんな状況だっていうのはちゃんと分かってましたね。

その頃、私は勤めがあれだったから、分からないけどね。

 

ー今は「うちはうち」という感じ

今は、「うちはうち」っていう感じでしょ。だから私達でさえ、お向かいのおばちゃんが病院に行ったりなんかしててもよく分かんないの。

彼女は、うちへタンタンタンと戸を叩いて来てたの。それをみんなが「うるさいからやめなさい」って言ったらしくて。たたいてもいいんだけど、「うるさいからやめなさい」って言ったら、それから来なくなった。

 

Q:お向かいのおばさんが病院に行かれてから、このあたりの活気がなくなったように感じますね。

前は、「ダレソレ!ダレソレ!」って呼ぶんですよ、あそこから。「おばさん、また呼んでるよ」って、私たちは言ってたの。

月島の渡し跡(渡し公園)

松原さんへのインタビュー  8/8(インタビュアー宮本)
(2018.6.8)

 

 


かくれんぼに駄菓子屋

Q:小さいころ、月島でどんな遊びをなさっていましたか。

ーかくれんぼをよくやっていた

小さいころは、輪をかいてトントントンって。こうやって、あと石けりとか、あとは、でもあれですね。男の子たちと遊ぶときはかくれんぼ。あの頃、うちとお宅の横が、材木屋さんというか、木型屋さんがあったんですよ。そんなの置いてあるもんだから、みんなそこらへんでかくれんぼなんかして、あと裏のほうも何かちょこっとあったから、かくれんぼとかよくやりましたね。女の子は違うことやってましたけどね。

 

私は、このへんじゃないのね、遊んでたの、同級生が向こうのほうにいるから。そこのうちがお菓子屋さんだったの。それで私があのころだから、二枚十銭とか、あるでしょ。

そうすると「おばさん、これ二枚十銭。こっちもそうだから、これ一枚ずつ、いいのよね?」って言うと、「おばさん、もう美枝ちゃんにはかなわないよ」って。計算しちゃうから。だって同じものを買うよりは違うものを欲しいじゃないですか。だから。

駄菓子屋さんもあったしね。

今はないですね、ほんとに。今あってもちゃんと袋に入っちゃってるから、面白くない。

 

Q:昔はこういうガラスの入れ物に入ってて。

そう。今地方に行けばそういうあれがあるじゃないですか。だから旅行行くと楽しいね。

 

Q:わたあめとか。

わたあめ、売りに来てたんですよね、おじさんがいてね。

 

Q:このへんはいろんなものを売りに来てたでしょう。さお竹、金魚、豆腐とか・・。

 

そこに豆腐屋さんがいたんですけど、こっちのほうにもいて、豆腐を売りに来たでしょ。「とうふ~、とうふ~」って。

豆腐屋さん、そこにあったのが向こうに移っちゃって、ちょっと遠くなったなと思っているうちになくなっちゃった。

やっぱり時代のあれにもよるんでしょうね。

 

ー駄菓子屋さんのおばさんもうちに来ていた

私たちのときは、まだ草柳さんが駄菓子屋さんやってたんですよ。おばさんがそれこそ二枚で十銭とかいうのがあるんですよ。だから私みたいに「じゃ、これ一枚ずつね」って。そういう悪いのもいるから。だって、同じもの二枚買うよりは違う方がいいですからね。そのおばさんも、よくうちには来てたんですよ。

 

ー「じゃあ、また来るね」から話が止まらない

その人のお姉さんが私と同級生。だからおばさんもよくうちへ遊びに来てたし、それで帰るときに、こう戸を開けるでしょ、「じゃ、また来るわね」って言って、それでまたそれからしゃべり出すでしょ。するとうちの父親じゃないけど、「なんだよ、今さよなら言ったばっかしでまだいるのかよ。それなら上がってったほうがいい」って。「帰るわよ」なんておばさん帰っていったけど、やっぱり話の続きが出てきちゃうのよね。「これがこうなのよ」とかさ。

 

今年春の桜
西仲橋から月島川水門のほうを眺める

 

松原さんへのインタビュー  7/ 8   (インタビュアー宮本)
(2018.6.8)


昔はお隣同士のつきあいが良かった

Q:町が変わって、「おはよう」って声をかけていたのがなくなりましたよね。

そうそう。前は、お隣のおばちゃんなんかうちへしょっちゅう遊びに来ていたの。「あら、おばさん、また来てるわ」っていうくらいに。

でも、こちらのおばあちゃんは、あんまり来ないのよね。たまにしかね。でも、お裁縫が好きだったみたいだから、ちょっと縫ってもらうときはよかったの。

お隣のおばさんはほとんど毎日来てましたよ。で、お茶飲んで帰る。

 

Q:同じ年代のおばあさんがいなくても来られてたんですか?

でも、だいたい母と同じくらいの年だからね。だから、母は大抵はうちにいましたからね。

それで、やっぱり、一人でうちにいるというのも嫌なんでしょうね。それでおじさんが、変な話、ボケってなっちゃって、一回私がなんか作ったのをおばさんと二人で食べるようにと思って少し作って持ってってあげたら、全部おじさんが食べちゃった。で、お皿だけが残ってた。そういうこともありましたけどね。そのおじさんもいいおじさんで、自動車を運転してたから、私達が子供の頃は、じゃ、佃までおじさんとりにいくから、帰りに乗せてもらおうって、子供たちみんな、後ろに乗って帰ってきたことがあるんですよ。

 

ー昔は隣のうちとすごく仲が良かった

だから昔はそうやって、お隣のうちとすごく仲良かったり、それからうちのお向かいさんなんか、うちへよく、あのおじさんが厳しかったから、おばさん買いに行くときうちへ寄るんですよ、ちょっと。それで一杯やって帰るのね。

おじさんがいると、おじさんうるさくて、一杯どころじゃないでしょ。それで、なんかうちの甥にパチンコのお土産だって持ってくるわけ。「あ、おばさんまたパチンコでしょ?」って言うと、「そうだよ」って言いながらうちへ寄って、それを置いていくと、うちの母親がそのかわりにお酒を出して、そうすると一杯飲んで、「じゃ、また来るね」って帰っていく。そういうつきあいはありましたね。

で、今よりはおつきあいが結構よかったですね。

 

ーお風呂をもらいに隣のうちへいく

で、最初、宮本さんちで、あの横のところに、お風呂つくったんですよ。お風呂というか、ほんとに何にもないんですけど、ただ湯船があって、あとちょっと流しくらいのところがあって、で、「お風呂入るんならどうぞ」ってくるから、「はい」なんて言って、それでお風呂入ったこともありますしね。

 

それをやめて、今度、うちの中につくったんですよ。一回か二回行ったわね。

おばあちゃんは「いつでもいいよ」って言ってくれるから「すいません」ってさ。やっぱり遠くまで行くの面倒くさいから、近くにあるからってさ。

だから、おばあちゃんとは仲良しでした。あと、多美ちゃんとかね。

で、多美ちゃんたちも猫ちゃん好きでした。いっぱいいたんですよ。猫ちゃんが赤ちゃん産んで。で、見に行くと、本当はいけないんですね。食べちゃうんですよ。とられると思って。それでも見たいから、怖いもの見たさでさ、「おばさん、いい?」「今日はいいよ」って見てね。

 

ーあの頃は良かった、お隣同士のおつきあい

でも、あの頃はよかったです。隣同士のね。今は本当の他人さんという感じでしょ。だからなんか寂しいですね。だから、今、また、お向かいのおばさんが、どっか入ってるでしょ。あのおばさんもしょっちゅう、私のところにタンタンタンって戸を叩いて来るんですよ。

そうすると、あんまり叩いちゃいけないって連れてっちゃった。それでそっちのほう、病院のほうへ入れちゃったから、やっぱり寂しいんでしょうね、おばさんもね。かわいそうに、なんでむげにそんなことしちゃったんだろうって。私なんかそう思いますけどね。

 

Q:お向かいのおばさん、今は歩くのが大変そうですね。

私も右がだめなんですよ。でもこっちを動かさないとしょうがないから、やってはいますけど。

 

今年一月降雪後の朝に

松原さんへのインタビュー  6/8 (インタビュアー宮本)
(2018.6.8)


月島で踊りや木目込み人形作り

Q:現在のお話をお聞きしますね。ご近所の方と踊りをなさっていたでしょう。最近はどうですか。

もう、わたしも体が動かないというか、やっぱりずっと立ってるのがつらいでしょ。だからやらなくなっちゃったら、余計にダメですね。本当はやったほうがいいんですよね。

 

Q:月島社会教育会館でも発表会とかあったんでしょう?

ありましたね。今でもやってますよ。今、もう踊りもやめちゃった。あ、一人の人は教えてるかなんかで私にも招待状くださるのよ。

ところがこないだ、うちは調子が悪くて、しょうがないから、時間遅いけど行って、一応ね。その方のは見られなかったんだけどいいわと思って。

で、会ったから「ごめんなさいね、ちょっと調子悪かったからあなたのみられなかったのよ」って、それでちょっとおしるしして帰ってきたら、「こないだありがとうございました」ってわざわざきて。やっぱりそれだけの縁でね。

 

Q:そうやってご縁があってつながっていて嬉しいですね。

ー踊りを通じて区役所の人とも仲良くなる

皆さんも踊っているところを見てもらいたい、って。私なんか恥ずかしくて、おどりのおの字くらいしかできないから。だからもう恥ずかしいから、いいや。そしたら区役所の人に、「松原さん、ちゃんとこうやんなさい」って言われて、「もういいのよ、私は隅っこでこうやってれば」って言ったら、「もっと前出て、前出て」なんて言われて。だから、結構区役所の人とは仲よくはなりましたけど、今も行くと何人か。

 

ー木目込み人形を教え始めて

私、しばらく前は、踊りじゃなくて、今度は木目込みやるようになったから、あれをやってたんです、ずっと。やっぱり人数が一人減り、二人減りで、今、具合悪くて見えない人が増えちゃってもうやめたんですよ。

 

木目込みも最初は簡単なのからやらないと、最初からあまりいいのをやっちゃうとだめなんですよね、逆に。

だから一番小さいような細かい、何これ? なんていうような、自分では思っても、そのうちにそれがすごく可愛く見えるようになるんですよね。

今はもう教えてませんけど、前はそうやって、大したことじゃないから。

で、一人、私より古い方が来てくれて、その方が教えてくれてたんですけど、結局。

最初初歩的なことは私がやってあげると、その人だけに頼めないでしょ。だから、そういうことで私がやってましたけどね。

 

教えるほどじゃないんですよ。だけど、あれ、こうあるでしょ。そうするとこれをちゃんときれいにして磨いてからじゃないとだめなんですよ。その磨き方もものによってはどこを磨いたらいいっていうのがあるでしょ。

 

ー初めは小さいものから、見えないところも丁寧に

だから、最初からあまり大きなものじゃなくて、小さなものからやって、ああ、こうやればきれいになるんだな、下の見えないようなところもちょっとやってあげて、きれいにしてあげて平らになると、着物着せてもきれいなんですけどね。

雑にやっておくと、着物がうまくつかないのよ。縫い物、結構作るには大変でしたけど、でも途中からは、もうみんな大変だから糊買ってきて、その糊でやってもいいわよ、ということになって、そのほうが楽だから。

自分でといて、一からやるというのは大変なんですよ。何でも。少しこれの中にこれを入れてとか。

私も前は着付けのほうも、ちょこっとですけど、やったことはあるんですけど、どうも物覚えが悪いからすぐ忘れちゃうのね。

 

月島社会教育会館(月島区民センター)
今年の梅の花。
春に先駆け香り高く開花。

 

松原さんへのインタビュー   5/8    (インタビュアー宮本)
(2018.6.8)


死ぬときは死ぬんだ

Q:渡し船の思い出は何かありますか。

私も本好きだったから。だから、築地のほうまで、築地にあれがあったんですよ。図書館。だからそこまでいって。借りてくるとまた返さなくちゃいけないから大変だから、読むだけ読んで、で、帰ってくる。そのうちこっちができたから。あれができるまでは大変でしたよね。

 

まだ、お船が通ってたでしょ。だからあの船で。あれタダだったからよかった。佃と、月島にもあった。

 

友達が第三っていうところにいったのね。そこに行ったのに、小学校の友達だから、私は大妻いっちゃったから、二人で、「時間合わせて、ここで落ち合う?」って言って、あそこのところで落ち合って帰ってきたこともあるの。船で。

 

Q:船で戻ってくるときに楽しいお話をされたのですか。

「今度どっか行きたいね」とかさ。いろいろありましたよ。

ー今の人たちは幸せ

でも今の人達は幸せだと思いますね。怖い思いをしてないしね。

ー死ぬときは死ぬんだって思っていた

私ね、「死ぬときは死ぬんだ」って思っているから、割合平気だったので。

ところが、母親は一人でも残してやろうと思うから、一人残ったって本当はしょうがないんだけど、でも母親としてみればさ、そう思ったんでしょうね。いろんなうちに、あそこのうちにあるから、入れてくれるかどうか聞いてみようって連れていかれたから、私は途中で「母さん、どこ行ったって同じだから、だったらうちへ帰って三人一緒に寝てて、逝ったら逝ったでいいじゃない」って言って。私は徹底していた、そういう点でね。

でも今思うと、その頃は懐かしいですけど、そのころは親も大変でしたよね。

ー配給のお米はわずか

だって、お米は少ないし、配給でしょ。ところが私はそのころあまり食欲がなかったから、ほんとに食事、大してしない。お隣のおばさんがびっくりするくらい。「美恵子さん、これだけしか食べないの?」帰ってきてから学校で食べないで持って帰ってくると、「なに美恵子さん、あなたのお弁当箱、寄ってるじゃない」。そうなの、こんなお弁当箱で、このへんに寄っちゃってて、「こんだけしか食べないの?」「そうあまり食べたくないからね」って。

 

ーお弁当のわずかなご飯とパンを交換したり

それで、お米が配給だからなかなかないでしょ。そうすると、パンを焼いてくる人もいるんですよ。うちはパン、あまり。うちの姉は好きだったけど、私はあんまり食べなかったから。そしたら、しょうがないってことないけど、「あなたごはん食べたいだろうから、かわってあげる」って。パンは自分のところでちょこっと作れるから。「じゃ、それ私がもらっていくから、あんたこのお弁当食べちゃっていいよ」ってあげると、喜んでましたよ、やっぱり。

 

Q:お米が貴重だったんですね。

そう、お米が貴重品でしょ。私はその頃あまり食べなかった。今のほうが食べるようになっちゃった。

 

Q:そのときの家族構成は? お父さんお母さんとお姉さんとお兄さん。

兄は予科練で。バカみたいね、「メガネ、ダメ」って言われたのにもう一回やってくれってやったらしいの。それで受かっていっちゃった。でもやっぱり運があるのね。

自分より一期後の人が、うちの兄より先に突っ込んだのはいいけど、何もしないうちに、海の藻屑になっちゃったのよね。それは帰ってきてから言いましたけどね。そういうのはかわいそう。

親だって、戦死ならば国から多少のあれ、いただけたでしょうけどね。そんな途中で何もやらないのに逝っちゃったらどうなったのか、そのことまでは私は分からないけど、親がかわいそうでしたね。

私なんかは一番最後だからどっちでもいいような感じだった。

 

Q:お兄さんは戻って来られて一緒に暮らされていたんですか。

 

ずっとこっち。姉は割と早くお嫁に行っちゃったでしょ。だからたまに来るくらいで。兄と兄嫁さんは二階に。

私は勤めだからほとんどいないから、母親がいるくらいで、だから、兄たちもよかったんじゃないですかね。

 

宮本多美子(多美ちゃん)
勝鬨橋にて

 

松原さんのインタビュー  4/ 8  (インタビュアー宮本)
(2018.6.8)

 

 

 


多美ちゃんとの思い出

Q:宮本のお母さんと親しくしていただいたと思うんですけど、ここには松原さん入ってらっしゃいますか。

(写真1を見ながら)いないと思う、ここには。でもこれはちょっと似ているような感じもする。この子、おかっぱだから。

 

写真1

 

多美ちゃんとは、あの人も結構本を持ってたんですよ。うち貧乏だから本買ってくれなかった。だからしょっちゅう「おばさん、多美ちゃんいる?」なんて言って、「上にいるよ」って言うから、「じゃ、上がってっていいかな?」「うん、いいよ」。

で、上がっていって、で、多美ちゃんに「本見せてほしいんだけど」「そこにあるから好きなの読んでていいよ」って言って。それでいつも引っ張り出して、「じゃ、これちょっと見せてね」って。だから結構やってくれました、いろいろと。

 

ー多美ちゃんは手先が器用

あの人、手先が器用だったから。編み物とか、そういうの好きでね。おばさんも器用だったんでしょうね。でも、おばさんの作り方は割合雑なのよ。悪いけど。たしかにやってくれてたの。けど、多美ちゃんのやり方と全然違うのね。多美ちゃんはきれいにやってくださる。

 

私なんか、「多美ちゃん、多美ちゃん」って、自分の姉よりよかったの。で、多美ちゃんのところに行けばさ、本は読めるしさ。だから、お嫁に行くまでは結構親しくさせてもらったんですよね。

 

Q:たしかに。おばあさんは最期、床についても孫のものを編んだりしてましたね。

そうでしょ。

(写真2を見ながら)これ、タエちゃんみたいね。このへんに、すぐそこにタエちゃんというのがいて、それからこの隣にヨウちゃんという人がいたの。それから、ヨウちゃんとマーちゃんとね。

写真2

 

Q:こちらも学生たちが帽子をかぶって・・・

 

(写真3を見ながら)あ、これね、戦争中。みんな防空頭巾かぶってるでしょ。これは母親たち。滋野さんとか、いたはずなのよ。こうなるとちょっとよく分からないけど、うちの母親もここにいるの。

写真3

 

Q:今と違ってとても危険な時期だったと思いますけど、みんながこうやって団結して。

 

すごい、何年頃かしら、私がまだ、学生の頃だったと思うのね。屋根のところに火がおっこってきたりとか、したんですよ。それをへんなパタパタやるので消したりね。ちょっとそのときはいやでしたけどね。

 

空襲ですね。あれがもっとひどいと、あそこみたいになっちゃうの。門前仲町の、あのへん一体、みんなやられたんですよね。こちらはまだいいほうなんですよ、焼けなかったから。焼けなかったからまだこういうのが残っていると思う。

 

防空演習って言ってね。皆さんこういう格好して、私たちはただ「おばちゃんたちやってる」っていうくらいにしか見ないけど、やったんですよ、みんな。だからいろんなのかぶってるでしょ。でもよくこういうのありましたね。

これがたしか、タエちゃんっていう人だと思うんだよね。私よりだいぶ上の人だけど。

 

Q:皆さん、着物でおさげだったんですね。

(写真2を見ながら)なんかちょっと撮ってくれたんじゃないかな。年寄りっていうか。このころはあんまり撮ることないと思いますよ。

写真2

 

もうこういう時代は全然わからないです。
今はいいわね、いい時代に生まれてね。

 

Q:これはまた学生のときのものなのか、それとも働いているときのものなのか、学生のような感じですよね。

 

そうですね。(写真1を見ながら)これなんかうちの兄みたいな感じ。そうですよね。まだ若いころでしょうね、これ。

写真1

 

Q:集合写真が残っているからいいですね。

 

そうですね、今みたいに「うちはうち、おたくはおたく」みたいな感じになっていると、なんかわびしいですよね。

 

Q:みんなで集合写真を撮っているというのは、戦争ということがあって、すごく団結しているのがあったと思うんですけど。

 

でもね、変な話、宮本さんちは人数少ないのよね。ところが宮本さんの弟さんのうちかな、すぐそこにあったの。そこのうちが子人数いっぱいいてね。だから、うちの母親が「私一人いれてくれない?」って言ったけど、「いっぱいだからだめ」って言われて、ほか行ってダメって言われて、私、「だめなところに行ったってしょうがないから、死ぬときは一緒なんだから、うちに帰って寝てたほうがいいから」って。

 

ーみんな死ぬんだから一緒のほうがいい

私、どうもそういうふうなあれなんですよ。姉もいたから、「私が一人残ったってしょうがないんだから、こっちでダメになればみんな一緒に死ぬんだから、お母さんたち一緒の方がいいから」って言って。うちの母親、「そう、あんたがそう言うなら」って言って。「やっぱり子供のほうが強いわ」って。

 

 

Q:空襲警報のときはうちの中でじっとして?

 

そうです。最初は押入れの中に穴ぼこっていうか、一応、一人入れるくらいのあれ、(防空壕を)作ったんですけどね、どっちみちここにいたって、こんなんじゃ生きてられないと思うからっていうんで、そこやめちゃって、二畳のほうに穴をほってやったこともあるんですよね。だからけっこうそういうのは大変ですよね。私達は小さいからなんにも手伝わないからいいんだけど、親はね。

 

Q:必死でしたよね、命を守るために。

親は子供のあれだからと思ってやったんでしょうけどね。

 

松原さんのインタビュー  3/ 8  (インタビュアー宮本)
(2018.6.8)