死ぬときは死ぬんだ

Q:渡し船の思い出は何かありますか。

私も本好きだったから。だから、築地のほうまで、築地にあれがあったんですよ。図書館。だからそこまでいって。借りてくるとまた返さなくちゃいけないから大変だから、読むだけ読んで、で、帰ってくる。そのうちこっちができたから。あれができるまでは大変でしたよね。

 

まだ、お船が通ってたでしょ。だからあの船で。あれタダだったからよかった。佃と、月島にもあった。

 

友達が第三っていうところにいったのね。そこに行ったのに、小学校の友達だから、私は大妻いっちゃったから、二人で、「時間合わせて、ここで落ち合う?」って言って、あそこのところで落ち合って帰ってきたこともあるの。船で。

 

Q:船で戻ってくるときに楽しいお話をされたのですか。

「今度どっか行きたいね」とかさ。いろいろありましたよ。

ー今の人たちは幸せ

でも今の人達は幸せだと思いますね。怖い思いをしてないしね。

ー死ぬときは死ぬんだって思っていた

私ね、「死ぬときは死ぬんだ」って思っているから、割合平気だったので。

ところが、母親は一人でも残してやろうと思うから、一人残ったって本当はしょうがないんだけど、でも母親としてみればさ、そう思ったんでしょうね。いろんなうちに、あそこのうちにあるから、入れてくれるかどうか聞いてみようって連れていかれたから、私は途中で「母さん、どこ行ったって同じだから、だったらうちへ帰って三人一緒に寝てて、逝ったら逝ったでいいじゃない」って言って。私は徹底していた、そういう点でね。

でも今思うと、その頃は懐かしいですけど、そのころは親も大変でしたよね。

ー配給のお米はわずか

だって、お米は少ないし、配給でしょ。ところが私はそのころあまり食欲がなかったから、ほんとに食事、大してしない。お隣のおばさんがびっくりするくらい。「美恵子さん、これだけしか食べないの?」帰ってきてから学校で食べないで持って帰ってくると、「なに美恵子さん、あなたのお弁当箱、寄ってるじゃない」。そうなの、こんなお弁当箱で、このへんに寄っちゃってて、「こんだけしか食べないの?」「そうあまり食べたくないからね」って。

 

ーお弁当のわずかなご飯とパンを交換したり

それで、お米が配給だからなかなかないでしょ。そうすると、パンを焼いてくる人もいるんですよ。うちはパン、あまり。うちの姉は好きだったけど、私はあんまり食べなかったから。そしたら、しょうがないってことないけど、「あなたごはん食べたいだろうから、かわってあげる」って。パンは自分のところでちょこっと作れるから。「じゃ、それ私がもらっていくから、あんたこのお弁当食べちゃっていいよ」ってあげると、喜んでましたよ、やっぱり。

 

Q:お米が貴重だったんですね。

そう、お米が貴重品でしょ。私はその頃あまり食べなかった。今のほうが食べるようになっちゃった。

 

Q:そのときの家族構成は? お父さんお母さんとお姉さんとお兄さん。

兄は予科練で。バカみたいね、「メガネ、ダメ」って言われたのにもう一回やってくれってやったらしいの。それで受かっていっちゃった。でもやっぱり運があるのね。

自分より一期後の人が、うちの兄より先に突っ込んだのはいいけど、何もしないうちに、海の藻屑になっちゃったのよね。それは帰ってきてから言いましたけどね。そういうのはかわいそう。

親だって、戦死ならば国から多少のあれ、いただけたでしょうけどね。そんな途中で何もやらないのに逝っちゃったらどうなったのか、そのことまでは私は分からないけど、親がかわいそうでしたね。

私なんかは一番最後だからどっちでもいいような感じだった。

 

Q:お兄さんは戻って来られて一緒に暮らされていたんですか。

 

ずっとこっち。姉は割と早くお嫁に行っちゃったでしょ。だからたまに来るくらいで。兄と兄嫁さんは二階に。

私は勤めだからほとんどいないから、母親がいるくらいで、だから、兄たちもよかったんじゃないですかね。

 

宮本多美子(多美ちゃん)
勝鬨橋にて

 

松原さんのインタビュー  4/ 8  (インタビュアー宮本)
(2018.6.8)

 

 

 


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