銀行おばさんになって

Q:松原さんは「銀行おばさん」というふうによく呼ばれていらしたから、銀行にお勤めだったのでしょう?

はい、銀行は学校出てすぐに、友達と二人で「どうしようか、一緒に入れるようなところがいいね」とか言いながら、なんとなく受けたら二人とも入っちゃった。私はずっと本店にいたんですよ。

で、こっちに、深川にできちゃったんで、私より一年、二年くらい上の人かな、こっちにできたときに来てたんですけど、そしたら「一緒にやる人が気に入らないからあなた来ない? 近いんだから」っていうんで、深川のほうへ来ることになっんです。本店は、それでも7年くらいいたのかしら。

本店は丸の内。東京駅のすぐそばですよ。だから一本で行けたし、帰りは、あの頃ですから遅くまで残業させられるでしょ。みんなが「若い人だから、運転手さん、気を付けて送ってあげてね」とかね、お姉さんだけはいろいろ言ってくださるの。「私たち見てるから大丈夫よ」なんて言って。

あの頃、怖かったですもんで。外人さんがあそこの勝どきのところにいてヒューヒューヒューヒュー言ってるのよね。何やってんのかと思ったら、通る人にね。

 

Q:アメリカの軍人さん?  戦後の頃?

うん。あれは戦争終わって割合すぐですよね。
私が入ったのは24年かだから。

 

Q:じゃ、本当に怖いときでしたね。

そう、怖かったですよ、やっぱり。変な話、橋のところにたむろしちゃって、4、5人くらいずついるんですよ。そうすると、通るとピューって口笛吹いて。だから一人で帰るのは怖かったですね。で、バスも割合早くなくなっちゃうんですよね、そういうときはね。
そういう思いしてないでしょ。いいですよね、今の時代はね。

 

Q:たしかに今は夜中でも女の子一人でタクシーに乗っても怖くないですものね。

そうですよね。だからそのころ一人でタクシー乗ったら、私より上の人達がね「美枝ちゃんね、私たち、見ててあげるからね。運転手さんの名前もちゃんと控えたからね」とか言って。それで運転手さんに「よろしくね。送ってあげてくださいね。」って。

丸の内でしょ、ずっと月島まで。

 

Q:距離ありますものね。

ありますものね。割合いい運転手さんだったからよかったんですけどね、あのころは怖い運転手さんというか、あまり柄のよくない人もいたんですよね。

 

Q:ところで、ずっと今のおうちに住んでいらっしゃるのですか。

ええ、多少なおして広くなってはいるんですけど。前は四畳半っていう感じで、あと二階があって。まあお隣さんなんかよりは広かったんですよ、それでも。

で、だんだん、こっちのほうも空いてるから、それじゃ足していこうって言ってさ。だから三畳、三畳になったから、もうそうすると使いにくいんですよ、かえって。

で、使っている子がいたんで、その子をそれじゃここで泊めてやろうっていって、そこの三畳に入れて。

だから、その人も、最初のうちは家賃をとらなかったんですよ。で、二階が結局、二階に住ませてやろうっていったときに、四畳半かな上は、だから四畳半があるからそこで、その代わりお家賃としていくらか払ってもらおうかって言って。

 

Q:それは戦前の話ですか。

もう戦後ですよ。だってその人も施設にいた子だから。それで施設からうちへきて、うちのほうで養ったというか。それで、使っているから多少は、小遣い銭くらいだと思うけど、結局あげてたでしょ。

Q:何人くらいの方が借りていたのですか。

うちは、その子一人だけ。

 

ー両親の手伝いに魚河岸へ

それと、父親がやってて兄がやって、母が最初にあそこまで行ったんですよ。お金勘定だけはやる。で、行ってて、休みのときは私が代わりに、こっちが休みのときに行くのね。銀行休みだから。じゃ、具合悪いから、ちょっと行ってくれるって。私なんか休みなし。それで一銭ももらわない、ただ働きでしょ。そのころは「しょうがないや」と思ってやってましたけど。

 

ー父親と市場で昼食

でも父親がまだ生きているときは、お昼になると、「じゃ食べて行こう」って言って、市場の中にいろんな食べるところがあって、自分がいつも行っているところに連れて行ってくれて、そこでお昼食べて帰ってくるの。

 

ー銀行が休みの日は母の代わりに市場でお手伝い

だから、銀行お休みの日はそれで行くの。母が具合悪い時とか、そうすると、やっぱり一人ね、勘定する人がいないからって言うんで、私が、「休みなんだから。ちょっと来てやってくれ」って言うから。嫌なんですよ、本当は。だって計算の仕方が違うでしょ、銀行とまた。銀行の方が慣れているかさっさっさってできるけど、河岸にいったらこれはいくら?シモまであるから大変なんですよ。慣れてくればなんともないんでしょうけど。だから私も苦労しましたよ。

 

Q:魚河岸にお父さんが勤められていて、お手伝いさんがいて。

父親は、私が小さい時はお店で使われてた。それで、私がもうそこにお手伝いに行くようになったときは自分のお店になっていたから。それでやっぱり、前に父親が勤めていたところの社長の奥さん、奥さんというか、見えてね、「名前をあげるからやってくれないか?」って言われたらしいんですよ。

 

ー市場で鑑札を取ってお店を持つ

だけどやっぱり昔の人でしょ。「先輩がいるのに私がもらうわけにはいきません」って断って、自分は、うちの姉と母親が、あそこ売りに出したとかなんか、あったんですよ、そういうことが一回。で、そのときに行って、姉と母親が交代でいって、それで鑑札とった。やっぱり鑑札がないとあそこでお仕事できないでしょ。だからああいうのも大変なんですよね。

 

私なんかは、まだ女学校を卒業してなかったから。まあ、親が卒業させてくれたようなもので、大した勉強もしないのに。

 

ー私は銀行へ就職

だから友達も、一緒に銀行入ったんですよ、その人は。でもその人はすぐに支店に回されちゃったのね。するとやっぱり寂しいでしょ、こっちも。いやだなと思っていたけど、でもだんだん慣れてくると、皆さんとうまくやっていくようになったから。それでも、銀行に長年勤めて。それでやっているうちに本店から深川に支店ができたんですよ。で、私がそこに来る前に、私より先輩の人がこっちに来てて、「松ちゃん、家が近いんだから、こっちきなよ、こっちきなよ」って言うから。それでそこに移動させてもらって。

 

ー朝の通勤時に勝どき橋が開くと大変

勝鬨橋がほんとに近くていいんですよね。こっち行くと、勝鬨橋がちょうどこう開くときがくるでしょ。だから、時間はその日によって、たまたまこういう時にあっちゃうと、5分、もっとですね、10分近く降りるまでかかるでしょ。「遅刻しちゃわないかしら」って心配しちゃう。まあうまくいったからいいんですけどね。

 

でも本店のほうが楽は楽なんですよね。こっちはお店がちっちゃいでしょ。するとお客さんも細かいお金をお持ちでしょ。だからあんまりあれじゃなかった。でも、いまだに、あそこを私が歩いていると、「あら、しばらくじゃないの」って声をかけてくださるお客さんがいらっしゃるの。向こうの方で。「あら、だれだったかしら」。顔は何となく覚えていても名前までは分からないでしょ。だけど、「しばらくね」なんていって。その方ももう亡くなったでしょうね、だいぶたっているから。

 

現在の勝鬨橋

松原さんへのインタビュー  2/8   (インタビュアー宮本)
(2018.6.8)


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